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俺物語ー福島裕也(教3)

〜俺物語〜

タイトル:軌跡

書いてから文章を見返して気づきましたが、めちゃくちゃ長いです。多分5~10分くらいかかりますが、読んでいただけますと幸いです。

〜軌跡〜

私の野球人生は、兄への憧れから始まりました。ずっと大好きだった兄の背中を追っかけていた自分にとって、兄の所属するソフトボールチームはとても魅力的で、そこから私の野球人生の軌跡が描かれ始めました。

〜小学校時代〜
小学校時代の私はいわゆる「天才」というやつでした。何故かは分かりませんが野球のセンスはあったと思います。ソフトボールチームではキャプテンを任され、ショートなのにサードフライを飛び込んで捕ったりしてました。他チームからも「あのショート上手いぞ」と言われ、天狗になっていたと思います。自分が1番上手いんだ、と思い込んだまま、中学野球へと突入しました。

〜中学校時代〜
中学校に入ったらすぐに、先輩方に注目してもらいました。兄である琢也はめちゃくちゃ野球が上手かったので「あの福島さんの弟か」ということで、すぐに試合にも出してもらいました。ただ、軟式野球はソフトボールとは勝手が違いました。芯でとらえたと想ってもボールが潰れて凡フライになったし、投げても思ったところに行きませんでした。そういった理由からなかなか結果がでず、「兄の七光りで試合に出してもらってる」と言われたこともありました。ただ、この経験が「結果が出るまで努力し続ける自分」を作ったのだと思います。周りから七光りだと言われた自分は、このまま言われっぱなしでたまるかという反骨心のもと、猛練習に励みました。冬は誰よりもバットを振り、誰よりも長く野球に漬け込みました。その結果、2年生からは結果が出始め、周りにも自分の実力を認めてもらい、キャプテンに選ばれるまで成長しました。そこからは、自信満々の自分の復活です。1番キャッチャーとして守打の要としてチームを引っ張らせてもらいました。自慢ですが、4校から野球推薦を頂くまでに成長し、「やっぱり自分にはセンスがある、プロになれる」と思い込んでいました。しかし、高校に進学するとそれはただの思い過ごしであることに気づかされます。

〜高校時代〜
結局高校は野球では無名の公立校に進学しました。高校では履正社高校など、強豪の選手をみて自分に絶望することも多かったです。練習も真剣にできなくなっていました。しかし、そんな時に投手に選ばれました。投手は思った以上に面白く、「もっと球早くなりたい!」という探究心が新たに生まれ、結果として再び練習を真剣にやるようになりました。周りの支えもあり、やり始めに114キロだった球速は133キロにまで伸び、公立校大会という、公立校のみが参加出来る大会では2位になることができました。「自分より上手い選手は山ほどいるが、自分が活躍できる場所は絶対にある」と思えた瞬間でした。

〜大学時代〜
大学は、高校時に大尊敬していた野村さんの影響もあり、準硬式野球部に入部しました。入ってすぐに感じたことは、「こんな野球部見たことない」でした。大きな声で笑いあったり、冗談を言い合ったり、正直最初はサークルかな?と思う程でした。しかし部活に慣れて行くうちに1つのことに気づきました。それは「ここにいる人はみんな野球が大好きだ」ということです。野球が好きだから楽しく活動できるし、好きだから適当に練習することはありませんでした。それに気づいてからは準硬式野球部が大好きになりました。いち早くこのチームの一員として野球をやりたい、という気持ちになりました。しかし、大学野球は高校時に感じた何倍もレベルが高かったです。ピッチャーのボールは130後半、140キロを出す人もいました。キャッチャーとして初めてブルペンに入った時は、先輩の池端さんのストレートがミットにかすることなく頭の上を過ぎ去っていったことを覚えています。そんな中でも藤岡さんという先輩にキャッチャーを教えてもらい、なんとか2年秋のリーグ戦にキャッチャーのレギュラーとして試合に出ることができました。結果は、10試合中5試合にでて、11打数ノーヒット。守備では5エラーを記録しました。さすがに野球を辞めようと思いました。頑張ってきたのに、自分の限界はこれまでか、と思いました。そんな時に主将に選んでもらいました。正直、自分はもう選手としては活躍できないんじゃないかな、と思いながら主将を務めることを決心しました。しかし、自分の代になって初めての公式戦である関関戦をベンチから見ていて、「やっぱりレギュラーで熱い試合をしたい!」と強く思い、そこからより一層の努力を重ねました。その結果として、3年の秋リーグでは打点王、ベストナインを取れるまでに成長しました。この秋リーグが現時点での私の野球人生の最高点だと思っています。準硬式野球部の経験は間違いなく自分の人生を大きく変えてくれました。

〜軌跡を振り返って〜

自分の野球人生の軌跡を振り返って、挫折が非常に多かったなと思いました。もがきながらもその挫折を乗り越えれたのは、チームメイト、友達、母の存在のおかげです。準硬式野球部で言うと、自分の技術がここまで上がったのは、自分にずっと構ってくださった1つ上の池端さんや水さん、キャッチャーの指導をしてくれた藤岡さん、吉村さん、打撃指導をしてくれた橋本さんを初めとした先輩方のおかげだと思っています。本当にありがとうございました。また、自分が色々な挫折を抱えながらもここまで準硬にのめり込んでこられたのは、紛れもなく同期のみんなのおかげです。みんながいなかったら今の自分は未だに.000でしょう。自分の野球人生と大学生活を濃く彩ってくれて本当にありがとう。

その中でも優斗と一至にはめちゃくちゃ助けてもらいました。優斗はプライベートも野球も常に近くで過ごしてくれました。一緒に練習してAチームに上がれた時はめっちゃくちゃ嬉しかったです。今も私が悩んでる時はフランクに話を聞いてくれる、大切な友達です。プライベートは特に一緒にいました。私のもっているSwitchを優斗の家に置く代わりに、合鍵をもらうという独特な契約をし、今も優斗の家に入り浸ってます。彼女のいない優斗にとって、僕は心の拠り所でしょう。優斗にただ1つ直して欲しいところは、スマブラで煽ってくるところです。直してください。
一至は、共にバイトで闘志と店を燃やしあった仲です。主務と主将ということもあり、よく一緒に「しんどいよなあ、」と愚痴をこぼし合っていました。しんどいことを笑いに変えてくれる一至は、主将として過ごす上で私に元気をくれました。ありがとう。一至とは家が近いので、次は一至の家の合鍵を貰おうかなと思います。
この2人だけではなく、幹部やチームのみんなにもお世話になりました。合宿のアメブロで感謝を綴りまくったので、後ちょっと一緒に頑張ろう!ということと、引退しても遊んでください!という事を伝えさせてもらいます。
あとは母と祖母に感謝を伝えたいです。優斗の家に入り浸り、あまり家に帰らなくても、たまに帰った時は温かく迎えてくれたり、私生活がだらしない自分を叱りつつも野球をやらしてくれて、女手一つでここまで育てあげてくれた母と、美味しい料理を作ってくれた祖母には感謝してもし尽くせないほど感謝しています。本当にありがとう。
就職したらいままでの恩を5倍にして返します。もうちょっとだけ面倒見てください。お願いします。

自分の野球人生は、「挫折」と「感謝」で構成されています。ここまでの野球人生の軌跡の終わりを最高のものにするために、就活は忙しいですが自分らしく、最後までもがき切りたいと思います。これを書いてる自分に酔ってるみたいで恥ずかしいですが、みんなありがとう!もうちょっと頑張ろう!!!

〜自分の野球人生〜

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