見出し画像

嵐の21年、全解説動画作りました!

動画はこちらから
 ↓
https://youtu.be/a0EMsWQadY4?si=h7zznGCac2rEfKUk


大野智少年は、鼻くそをほじるのが得意な少年でした 

ジュニアのダンスレッスンそっちのけで、ずっと鼻くそをほじっていました

そんな大野少年が、ある日 「今日、何時に終わるのかな?」と声をかけたのが、同じくあまりやる気のない二宮和也少年

そんな二宮和也少年を叱ったのが、おっかないジュニアの先輩、櫻井翔少年

そんな櫻井翔少年の一年後輩が相葉雅紀少年
そして、末っ子に松本潤少年

これは、そんなまだ何者でもなかった小さな少年たちが、やがて日本を代表する国民的アイドルになるまでの物語だ


・「1999年」 

1999年、11月3日

20世紀の終わり・・まさに世紀末に、世界の終わりだ!と言われていた年に まだあどけなさの残る5人の少年たちが、ほとんど何もわからない状態で、
1億人の目の前に現れた・・・

この5人の少年たちが、まさか日本を代表する国民的アイドルになるとは、
まだ誰も思っていなかっただろう・・・
彼らのファンをのぞいては・・・・

いやファンも決してそんな風には想像していなかったのかもしれない・・・

なぜなら、1999年当時は、バンド全盛の時代・・・・
そして、ジャニーズアイドルの人気も、SMAPは健在だったものの・・・
全体的に落ち着き始めていた時期でもあった・・・

事務所内での、5人の立ち位置も、微妙と言えば微妙だったかもしれない・・・

なぜなら、ジュニア内での圧倒的な人気はタッキーこと滝沢秀明であり、
5人も、それぞれファンがいる面々ではあったものの、所詮、タッキーのバックダンサー的立ち位置だったからだ・・・

タッキーは、まだジュニアだったもの、その凄まじい人気ぶりから、レギュラー番組を幾つももち、ドラマにも引っ張りだこ・・・
他のジュニアたちとは、圧倒的にレベルが違った・・

誰もが、次にジャニーズからデビューするのは、タッキーだと思っていた・・・

そんな状況の突然の、この5人のデビュー・・・

ダンス経験や舞台経験、そして多少テレビの画面に出ることに慣れているとはいえ、
まだ右も左もわからない、ただの5人の少年たちが、この後日本のエンタメの中心となり、そのカリスマに
なると、誰が想像しただろう・・・

だが、デビューは、華々しかった!!

もともとジュニア内でも人気があったメンバーを集め、ワールドカップバレーのイメージソングとして
デビュー曲「A・RA・SHI」をリリース!!

今じゃ、日本人でほとんど知らない人はいない、国民的グループのデビュー曲だ!

初動売り上げ55万枚を打ち立てた・・・

さて、ここで私たちが愛するグループのメンバーを紹介しよう!!

まず、嵐のまとめ役で、この後、司会もニュースも何でもこなす
超エリート、翔ちゃんこと櫻井翔 

昔は、ちょっとギャル男っぽいけど、今では爽やかイケメン

バラエティーとかではお茶目な部分があるけど、
リーダーシップもあって、個性的な他のメンバーをちゃんと
まとめる頼れるお兄ちゃん・・・あれ?確か嵐にはちゃんと正式にリーダー
がいたはずなんだけどな・・・

次はこの5人の中でも生粋のイケメン、そして最もアイドルらしいアイドル 最年少、松潤こと松本潤 
だが、当時はまだお笑い担当だったみたい・・・

プロ意識が高く、一番熱い男・・・・ライブの構成や演出はほとんど彼がやっているみたいだ・・・

あまり嵐を知らない人たちの、一般的な彼のイメージはとてもクールで、ちょっとお高くとまっているみたいな感じかもしれないけど
this is mj などを見てみれば、一番お笑いに向いているのは、もしかしたら彼かもしれないね

そして我らが愛すべきコミュ力お化け・・・ニノこと二宮和也
愛らしい顔をしながらも、その演技力はハリウッドが認めるレベル・・・
そして、大御所から後輩まで、誰にでも変わらず
ある意味、めちゃめちゃ肝が座っているコミュ力の塊みたいな人・・・

そして、この5人の中でも1番のバラエティー担当で愛され家・・・相葉ちゃんこと相葉雅紀・・・
嵐というグループの明るさは、まさに相葉ちゃんから来ているといっていいかも
いつだって笑顔で、いつだって何事も全力に取り組む姿
そして、とても熱い情を持つ
とってもわかりやすい人で、そしてとても愛される男

最後に、天から与えられた才能か?それとも生粋の努力家か?
この5人の中で一番謎めいた存在・・・一番リーダーらしくない、リーダーこと大野智・・・
いつも眠そうな顔をしているが、すでにこの時から・・・というか、ジュニアの頃からいつも
眠そうな顔をしていたらしい・・・

しかし、ひとたびステージにたてば、歌でもダンスでも、どのジャニーズをも
圧倒するパフォーマンスを放つ・・・・

ある意味、一番最強な存在だ・・・

以上が、嵐の5人だが、この時はまだ彼らの隠れた実力、才能がそれほど大きく世間に発揮されてはいなかった・・・

なぜなら、やはり当時は、まだ同年代で一番人気があったのはタッキーで
嵐や他のジュニアたちは、その影に隠れていた  

何より5人も突然のデビューで、自分たちがどう進んでいいのか、これからどうしていけばいいのか
プランも何もない状態・・・
方向性も何も定まっていなくて、ただ目まぐるしく状況が変わる中、与えられた仕事を
こなしていく日々が続いていた・・・

5人自身が自分のことを、まだよくわかっていない状態だった

ぶっちゃけ嵐結成前・・・大野、二宮、櫻井の3人は、ジャニーズをやめるつもりだったらしい・・・

リーダーはイラストレーターになりたいと考え・・・
翔ちゃんは、大学進学のために
ニノは実家の工場か、舞台の裏方の仕事をしたいと考えていたらしい・・・

やはり、まだ10代の少年たちにとって、
これからずっと芸能界で仕事をしていくのか?このままずっとその世界で仕事をしていくのは、不安でしょうがなかったのかもしれない・・・

そこで、事務所に与えられた突然のデビューの切符!!

しかも集められたメンバーの5人のうち3人は、直前までやめることを考えていた・・・

全員まとまりもない状態で、運命のいたずらで引き寄せられたのか?それとも大人の都合か?

状況がよくわからないけど、とりあえず大人たちに与えられたチャンス?試練?を

1999年、5人の少年たちは、運命を受け入れて進んでいく


・「2000年」

20世紀の終わり・・まさに世紀末に、世界の終わりだ!と言われていた年に まだあどけなさの残る5人の少年たちは、
1億人の目の前に立たされた

そして5人にとって、激動の1999年が終わり、21世紀が始まった。

だが、その始まりの年が見事にこけたのです!!

2ndシングル「SUNRISE日本/HORIZON」は、デビュー曲「A・RA・SHI」に比べて
大幅に売り上げが落ちた!

とは言うものの、やはり「あらし」の時は、デビューということもあってメディアにめちゃめちゃ取り上げられたし、
大人たちが華々しくプロデュースしてくれたこともあって、あの結果を出せたということもあるから

まあ、こんなもんだろう、と5人も納得がいったかもしれない・・・

しかし、5人が恐らく納得ができなかったのは、その扱いについてだ・・・

デビューして、レギュラーで出ている番組はあるものの、それら全てで中心にいるのは、やはり不動の人気を誇るタッキーだった・・・

「やったるJ」「ガキバラ帝国2000」「USO!?ジャパン」、全てタッキーが中心だった・・・

嵐はデビューしたのに、番組内の立ち位置も、人気の面でもジュニアだったタッキーに押されていた・・・
ジュニアの頃の「滝沢秀明とゆかいな仲間たち」の域を、嵐は出ることができなかった

嵐自身、当時を振り返って
「嵐にセンターがいないのは、絶対的センター滝沢の後ろでバックに着くことに慣れていた面々だったから」だと言っている。

しかも、ジュニア内でも新しく人気なメンバーが続々と現れていく・・・特に山Pこと山下智久の人気はすさまじかった。

そして2001年には、ジュニア内ユニットとして亀梨和也、赤西仁を中心とするKAT-TUNが結成され、後輩たちがどんどん勢いをつけてきた。

そして、先輩のデビュー組(SMAP・TOKIO・Kinki・V6)も、ちゃんと売れ続けている。

それに比べて、嵐は圧倒的に「嵐」としての一般的な知名度が絶対的に足りず、常に5人には焦りがあった。

上からも下からも勢いが凄く板挟み状態・・・・
この状態が、2005年まで続くことになる・・・

そんな状況での、自身初のコンサート「スッピンアラシ」では、圧倒的に人気もなかったため、コンサートでも、まったく客席が埋まらなかった・・・・

5人は本格的に「あれ・・・俺たちヤバいな・・・」と思い始める。

本格的に嵐の人気の無さが露呈された瞬間だった

我々一般人には、わからない感覚かもしれないが、同じ事務所に所属する先輩や後輩たちが自分たちより売れている様を見れば、将来が不安になることは当然だろう


「自分たちは人気商売であるこのアイドルという不安定な仕事で食べていくように道が作られている

もし人気が出ない状態がずっと続いたら・・・

いずれ干されるんじゃないか?

ジャニーズで、これだけの活躍しかできないんだから、他の事務所にいっても大した活躍もできないだろう

そうなったらどうしよう?

次の仕事を考えないと・・・

でも、元アイドルで、それ以外、何のスキルもない俺たちにどんな仕事ができる?

どうやって生きていけばいいんだろう?」


外野から見ている我々には、あまりわからないかもしれないが・・
少なからず、こんな不安がメンバーたちにあったに違いない・・・


だが、嵐は苦しみながらも、腐ることなかった

その諦めない精神は、4ndシングル「感謝カンゲキ雨嵐」に表れている。

ニノ出演のフジテレビ系ドラマ『涙をふいて』オープニングテーマでもある。

これは嵐ファンへの感謝を伝える代表曲であると同時に、嵐自身が嵐という存在に感謝を伝える曲でも
ある。

砕け散った気分なら、ためらわずに怒りをヤワな自分に向ける
この

決して、誰かのせいにせず、環境のせいしない
腐らずに、自分にどこが足りないか?
嵐として何が足りないか?

そう常に考え続けている5人の少年の心は、「怒りをヤワな自分に向ける」という歌詞が表しているように、もはや心は大人だった

・「2001年」

嵐は、5枚目シングル「君のために僕がいる」がリリース!!

6枚目シングルでは、松潤が主演を務めた「金田一少年の事件簿」の主題歌として「時代」という曲をリリース!

デビュー曲から、ここまで嵐の曲の方向性や、ミュージックビデオを見てみると、わかる通り嵐のプロデュースのされ方というのは、ザ・王道アイドルという感じではなく

アイドルに「ストリート文化」という要素を掛け合わせたものだと、わかる。

ダンスしかり、翔君のラップしかり、MVビデオにおける当時のメンバーたちのファッションしかりだ。

先輩でも、ラップをやったり、ストリート要素を取り入れた曲をやっているグループもあったが、嵐ほどストリートカルチャーを全面に出したグループはなかったかもしれない

当時の嵐は、ジャニーズアイドルという爽やかさを持ちながらも、どこかストリート文化の泥臭さや汗臭さも感じさせてくれる、絶妙な魅力を持っていた。

実際、この頃の翔君は「嵐としての仕事が全くなかったから毎日、海に行って真っ黒にやいていたと、アイドルらしからぬ、ギャル男っぽい行動をして事務所の人から怒られていた

そんなある日、嵐の5人は突然事務所の人に呼び出される。

何事か?ついに解雇かな?なんて想像しながら、いざ行ってみると

「何か欲しい物はないか?」と聞かれる。

面をくらう5人だが、すぐに口を揃えて「嵐の冠番組が欲しい」と力強く言った。

やはりレギュラーで出演している番組が全て「タッキー中心」なのは、不満があったのだろう。
事務所関係者たちも、「デビューした嵐が未だにタッキーの影に隠れている状況」は流石にまずい!と思った。

そこで、事務所は、日本テレビの深夜枠で放送されていた先輩TOKIOの人気番組「鉄腕ダッシュ!」をゴールデンに移動させ、そこに、嵐の初の冠番組を入れることにした。

そして2001年10月3日に、ついに初の単独レギュラー冠番組『真夜中の嵐』が深夜枠で放送開始!!

番組内容は、嵐の面々が、最終電車でたどりついた真夜中の街を1人自転車で走り、九州から北海道まで日本縦断を目指しながら様々な体験を
するという、ちょー身体をはったものだった。

現在の大スターになった嵐の5人からは想像もつかないような身体をはった企画な上に、低予算番組だった。

そして、悪いことは続くもので思ったように売れない嵐を、当時のレーベルだったPONY CANYONが見限り、契約を終了させてしまったのだ!

もちろん事務所も黙っていなかったが、ここでPONY CANYONに圧力をかけるより、
「嵐は、うちでキッチリとプロデュースして売り出した方がいい」との結論に至り

11月12日、事務所は嵐のプライベートレーベルとしてJ Stormを設立し、曲も全て事務所がプロデュースすることになった。

しかし、そのようにして事務所が嵐を守っても、嵐の人気の無さには急激に数字で現れるようになった。


・「2002年」

J Stormで再始動した嵐の初のシングル、7枚目シングル 「a Day in Our Life」

ここから本格的に、嵐のストリート系アーティスト感が濃くなっていく。

kat-tun(カトゥーン)のアーティストとしてのイメージは、パーリーピーポーだが、この頃の嵐もパーリーピーポー感が強い笑

しかし曲の勢いや斬新さはあるが、それが世間にマッチするかどうかは別で、嵐のCDの売上、そして人気はどんどん下降していく。

そこに追い打ちをかけるかのように、後輩たちの人気が上がり始め、
あるユニットのデビューが決まる!

「タッキー&翼」が、満を持してデビュー!!

そして、まだデビューはしてないもののkat-tunカトゥーンのテレビへの露出も増えてきた。

人気のある後輩の勢いが強くなり、事務所全体も忙しくなりはじめ、自然と売れない嵐は、ほっとかれるようになる・・・

嵐のコンサートを見に来た事務所の人からは「こんなに盛り上がらないコンサートは始めてだよと言われる始末。


そんな風に嵐の人気が急激に下降していたある日

翔君が、友人と会食をしていたところ、たまたま翔君は知り合いに遭遇。

その知り合いから、芸能関係の有力者が近くにいるため、顔を出すように促され、友人と一緒に挨拶に出向くことに

だが、その有力者は翔君を見るなり「えっ?君、誰?」と一言。

そして『ああ、そうなんだ、そういうグループをやってるんだ、頑張ってよ、じゃ』みたいな感じで翔君はテキトーにあしらわれる。

翔君は、その場では『はい!ありがとうございました!』と我慢して丁寧に挨拶をしたが

店を出るなり、階段でブワーッと泣き始め『なんかもう…悔しいよと友人にこぼした

そして一緒になって、友人も泣き始め、六本木交差点で、お互い頑張ろうぜ、と励まし合った。

櫻井翔は、今でこそ言うまでもない大スターだが、嵐がまったく認知されてない時代には、こんな屈辱的な経験もしていた。

2002年は、嵐にとって最もキツい年だったかもしれない。

特にファンにとってショッキングな出来事だったのが、相葉ちゃんが肺気胸という、肺が破ける病気にかかってしまい、入院することになったのだ・

若い人が、かかってしまったら、かなりの確率で再発する病気だった・・・

相葉ちゃんは、当時まだ10代・・・

重い病気にかかってしまった相葉ちゃんは、ここで「今までやってきたアイドル」という仕事を続けるか?やめるか?の二択を迫られる状況に陥る


・続きは動画から

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?