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垣内光司さんのことばを聞く②

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< 石垣島の躯体 / 八百光設計部 >

プロポーションと身体性

福西|石垣島のプロジェクトには、あえて「躯体」と名前をつけていて、環境と躯体の関係、又は躯体がどう風土にあるべきか、が読み取りやすい。前回のインタビューでドット・アーキテクツの家成さんが、垣内さんはよく「プロポーション」の話をする、と言っていました。そのプロポーションに関して、「伏見稲荷の納戸」は良いとして、「石垣島の躯体」からはプロポーションに身体性がどう伴っているかが良く分からない、と言っていました。

垣内|僕は、身体性は伴わないようにしているつもりです。石垣島の躯体に関しては、すべてパネルの大きさを基準に設計されている。だからあれは坪当たり54万程度で、RC造にしては驚異的な安さでできている。型枠の3x6板で決まっているので、その3x6板が身体性を持っていると言えるかどうか。僕はその枚数を気にしているだけです。その意味においては、身体性はないのかもしれない。

福西|コストありき、の話になってくるわけですか。

垣内|コストありき、と言うよりも「躯体ありき」かな。

福西|なるほど。ルーイス・カーンのフィッシャー邸の外壁も、入手できる糸杉の最大の長さを2層合わせての高さ、というボリュームの決め方をしているらしい。だから、リビング・キューブの天井高はものすごく高い。逆にスリーピング・キューブの天井高さはすごく低い。「伏見稲荷の納戸」を見た時も同じような感覚があって、一見倉庫なのかどうかも分からない。ぱっと見て住宅なのか倉庫なのか分からないけれども、強烈な形式と美意識がそこにはあり、ビルディング・タイプを乗り越えていく強さがある。だから、石垣島の躯体に関しても、その形式と美意識を躯体に込めたようにも見えます。

神殿について

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< 伏見稲荷の納戸 / 八百光設計部 >

垣内|住居か住居でないか、とかビルディング・タイプの話自体は身体性に繋がっているとは思う。でもそこで身体性という言葉を出すのであれば、僕は「神殿性」と言いたい。藤原徹平さんの住居か神殿かという話を聞いた時に、僕は神殿でありたいと思いました。伏見稲荷の納戸も石垣島の躯体も、それから上鳥羽の離れ(仮)も。だから住宅の話はあまりしたくない(笑)。

福西|「神殿」の話は伏見稲荷の納戸を一緒に見た時にも話題に上がりましたよね。

垣内|石垣島のプロジェクトに関しても基本的に神殿を作ろうと思った。だから内と外の大差がなくて、複雑なことも全くない。住宅特集で発表した時の文章は「石垣島の躯体」としているけど、最初に文章を書いているときは「石垣島の躯体形式」にしていました。でもちょっと難しすぎるな、と思って「石垣島の躯体」にした。だから、そのプロジェクトにおいては住居の話は一切していない。集落のコンテクストをいかに躯体に仕上げたのか、という話にしています。

福西|石垣島の躯体におけるコンテクストの話は環境に直結するわけですか?

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<石垣島の家屋>

垣内|もう、圧倒的な環境しかない。石垣島に通って4年目ぐらいに完成した。はじめの2年くらいは敷地の草むしりとかしてクライアントと一緒に庭を作ったりしていました。そうした時にもう圧倒的な、蒸し風呂のような暑さと火傷するような直射日光で。ただ木陰に入ると体感が全然違う。それを体験しているので、クライアントと「これは日陰じゃないと無理だね」と話をしていた時に、日陰の建築を作ろう、としたのが最初です。いかに日陰を作り、いかに台風に耐えられるか。風速70m以上の台風がきたら建築のディテールなんて太刀打ちできない。車がひっくり返る世界ですよ。いかに耐えうるかを考えた時にコンクリートしかあり得ないし、周りもの家々もコンクリートブロックの平屋で、低く重くするしかない。だからその作り方は正しいのだろうな、と思った。

福西|ほとんどシェルターですね。

垣内|元々は63年前、政府の計画移民の人たちの為の木造の集落でしたが、建物は台風で殆ど飛んでいってしまった。住民は別の土地に移動したらしく、我々が通い始めた時には、集落に18世帯しか残っていませんでした。その残った人達は建物をブロック造に建て替えて、それが現在の集落として残っている。

福西|なるほど。石垣島の躯体は、常に人が住んでいる住居ではないのですよね?

垣内|はい。施主だけでなく、様々なゲストも滞在しているようです。住居を説明する時に、コストとか施主の意向とかを語ることで、建築を語りなくない、という気持ちがありますね。居心地、使い勝手、コストとかの希望に応えるのは設計者マナーみたいなものじゃないですか。それを同業者と議論する時にあまり持ち出したくないな、と。

福西|確かにそれはありますね。

垣内|石垣島の現場をやっている時に、現地で朝食を食べてたらフェイスブックのメッセンジャーで青木弘司さんから別件についてメッセージがあって、「今石垣島にいるんですよ」とついでに石垣島の躯体の話もしたんです。石垣島の躯体を藤村龍至さんには「ナラティブモダン」と言われた、と言ったら、青木さんがそれは「自律性」と言いたいですね、と言う返答で、ああ、なるほど、と。神殿性を思い浮かべながら自律性のことを考えていたんだな、と。当時はその辺にしか興味がなかったのかもしれないですね。

福西|例えば雑誌とかで発表する時は、神殿とは言いづらいのではないですか?

垣内|伏見稲荷の納戸か石垣島か忘れましたが、発表時の文章に神殿の話を少し入れたら、これは何ですか?って言われた(笑)。

福西|編集の方に?

垣内|そうそう。だからこれはもうちょっとちゃんと説明しないとダメだな、と思って。倉庫とか工場とかには、ある種の神殿性があるのは気づいていた。結局、工場とかは内部はタッチできない。機械の配列、生産ラインが基本だから、建築家ができることと言えばボリュームを設計して、どう光と風を獲得するしかない。そう考えると、工場や倉庫ってもう神殿だな、と思ったんですよ。だから面白いし、身体性という言い訳がきかない。

福西|なるほど。倉庫とかはそうですね。

垣内|身体性って言葉はいい響きだけど、言い訳ぽく聞こえるじゃないですか。

機能とコンテクスト

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< 上鳥羽の離れ(仮) / 八百光設計部 >

福西|垣内さんにとっては、身体性と機能美がイコールになるのですか?

垣内|というよりも、身体性では語れない、自分には手が届かない範囲があるって大事かなあと思っています。「上鳥羽の離れ(仮)」のような小さな住居であっても、施主がタッチできない領域があるのは建築にとっては重要ですね。

福西|上のほうに配置された窓とか?

垣内|そう、道路に面する高窓が十字架のサインになったり、床柱がなぜ十字架になっているか、なんてことは施主にとっては説明されていないところなんですよ。でもある人が見たら、ああ教会なんだな、ってわかる(笑)。だから高窓の内扉を開けている時には、外から見ると単なるガラスだけど、西日避けで内扉を閉じた瞬間に十字架が現れる。住宅を作っているんだけど、実は隣の教会が建て直しになった時に、必然的にあの住宅が教会の一部にならないか、と思って設計しています。

福西|そうやって考えると、垣内さんの建築が周辺に及ぼす影響も大きいですよね。伏見稲荷の納戸にしても、建設中は住宅か倉庫か店舗か、何が建つか分からない規模と雰囲気があったので、建設中は近隣の人たちもザワついてた、とかで。建築が建つ周りへの影響まで含めて設計していますよね。

垣内|建築はそうであるべきだと思うし、自分が設計する建築もそうでありたい、と思っています。

教育的DIY

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福西|独立初期の頃にDIYの活動もしていましたよね。その頃に考えていたことは、現在の設計活動にあまり関係はないのですか?

垣内|僕が今までやってきたことを一言でくくると「教育的」かな、と思います。

福西|教育的ですか?誰に対してですか。

垣内|誰に対してと言うか、より多くの人を建築参加させるために、建築専門外の一般の人を教育する。ただ一緒に壁紙を張って「こんなデザインにしました」というイベントの話にはしたくないですね。DIYを通して何を語れるか、建築行為を通して街がどう見えるかというのは教育の話ですよ。いかに建築をより多くの人に開いていくか、という意味においてはDIYというのはすごく便利なツールであることに気が付いて「Do It Yourself」は教育である、教育的DIYという話をしていた。

福西|ああ、そういう意味で。

垣内|「上鳥羽の離れ(仮)」においては、今までハウスメーカーの住宅しか施工してこなかった施工者に向けて、こちらが思い込んだ設計を無理やり施工させるよりも彼らが持つ技術力を正しく理解して、設計を見直すことで、彼らが今までタッチしてこなかった別質の建築にタッチできる。そのキッカケをつくる。そうすると彼らも建築に向き合う視線が少し変わるんじゃないか。

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< 上鳥羽の離れ(仮) / 八百光設計部 >

福西|なるほど、その意味での教育ですか。

垣内|やっぱり建築の事を知ってほしいし、楽しんで欲しい、と思う。けど、それにはそのキッカケがないと難しい。たぶんそれは自律性とか神殿性の話にもつながるのではないかな。建築に潜む神殿性が、たとえ建物のオーナーや住人、時代が変わろうとも、誰かがいつか、その建築を何かに使ってみたいと思わせる。そのポテンシャルを見分けられるには、ある程度のリテラシーが必要だし、それにはやっぱり教育が必要かなと。ただ、それが身体性の対義語になるかは分からないけど。

福西|対義語にならないでしょうね。

垣内|プロポーションにこだわるかどうか、それは皆こだわっていると思うんですよ。そのプロポーションを説明する時の言語が何に寄り添っているか。建築を語るのにあまり人に寄り添うような説明はしたくないかな。家成さんのいう身体性と言うのは、どの意味においての身体性のことを言っているのだろうか。

福西|うーん、家成さんのいう身体性は、もうちょっと動物的に心地よいな、気持ちいいな、という範囲での身体性なのかな。この木陰に座っていると気持ちいいな、みたいな。その意味において、垣内さんの持つ身体性と建築のプロポーションに関係性がちょっと見えないな、ということなんだと思いますが。

垣内|でも、家成さんとか藤村龍至さんも、石垣島の躯体を見に来てくれた時に、屋上デッキの高さにアフォードされて、ビール飲んで寝転んでたよ(笑)。

福西|あはは!じゃあ気持ちいい建築ってことですね。でもね、家成さんとの話で話題に上がったのは、外部よりもインテリアの話ですよ。それは僕たち皆の課題でもあるのですが、建築家はインテリアが上手ではないなあ、と。

垣内|下手よね。そこから逃げているのではないか、という指摘ね。

福西|そうですよね。

垣内|たしかに逃げていると思うし、可能なら他の人に頼んでもいいな、とも思う。頼んでも良いと言うのは半分冗談で半分本気。建築の躯体・骨格とインテリアが距離を持ってしまうかどうかが気になる。例えば、外形が家形の建築があったときに、内部でアーチやフラットな天井を作りたいと思った時の「あいだ」が設計できていれば良いのだけれど、それは果たして可能か、と言うことに非常に疑問を感じるんですよ。だから僕が建築かどうかを判断するのは、矩計を見て判断している場合が多い。

福西|なるほど。

垣内|石垣島の躯体においては、内装はほぼないですよ。躯体しかないから、それがいいなと思っていました。施主が60代のアートディレクターで、ミニマルでモダンなものが欲しい、と言う方だったので、それに甘えていたところもあるかもしれないですね。

>>垣内光司さんのことばを聞く③につづく

>>垣内光司さんのことばを聞く①

垣内光司 (かきうち こうじ)
1976年京都府生まれ。大阪芸術大学卒業後、阿久津友嗣事務所を経て、実家の青果店八百光に設計部を設立。現在、一級建築士事務所八百光設計部主宰、大阪市立大学非常勤講師。第23回吉岡賞、第6回京都建築賞藤井厚二賞、WADAA2018など受賞。著書に7ip#03 KOJI KAKIUCHI(ニューハウス出版)がある。
福西健太(ふくにしけんた)
1979年大阪府生まれ。ウィスコンシン大学ミルウォーキー校建築学科卒業 / TEN Arquitectos NY勤務/ ペンシルベニア大学大学院建築学科修了/ 伊東豊雄建築設計事務所  / 福西健太建築設計事務所主宰/www.kfaa.jp



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