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藝人春秋Diaryをめぐる長き旅路(仮)〜序章/内心、Thank You」はKeyが高すぎて歌うことができなかった。

「藝人春秋Diaryをめぐる長き旅路(仮)」

序章「内心、Thank You」はKeyが高すぎて歌うことができなかった。


1985に上梓された自伝小説「微熱少年」の中で松本隆はこう記されている。


地図帳を広げて、青山と渋谷と麻布を赤鉛筆で結び、囲また三角形を風街と名付けた。
(小説「微熱少年」より)


ボクがこの小説に巡り合ったのは15歳のときだった。
曇り硝子の向うの風の街への郷愁と10代後半でしか得ることが出来ない甘酸っぱくも切ない感情。村上春樹の小説よりも先にボクはこの小説に撲殺され、気分だけは松本隆のまま高校を卒業した。ビートルズを聴き、ビーチボーイズのレコードを収集しつつ難解な小説を読んだつもりで「自分は周囲に理解を得づらい」存在になろうとした。男子校だったので女子との交流は皆無、おまけに隣の席にはゲイ疑惑のある生徒会長だったので松本隆の小説や歌詞のように切ない恋に悩まされることもナッシング。生徒会長は休み時間になるとお気に入りの渡辺美里の曲を歌いながらノートに短歌や歌詞を綴っていた。松本隆が過ごした60年代の東京の風景はやたら遠かった。


「微熱少年」。ビートルズがやってきたあの夏の光景を描いたこの小説をボクは何回読んだかわからない。おかげでボクは高校時代の3年間をビートルズやビーチボーイズばかりを聞いていた。自分の中で邦楽は別耳でチェックしていたので時代の波はなんとか乗り切っていたが、洋楽に関しては60年代最優先、70年代以降の音楽は要検討と勝手にしばりを作ってしまったがためにリアルタイムの80`S洋楽ヒッツはすっぽり抜け落ちたまま現在に至っている。

福島県郡山市で高校時代を過ごしたボクにとって地図帳を広げて赤鉛筆で囲むようなエリアは存在しなかった。まず学校、家、駅前にある東北書店、新星堂カルチェ5、時折空腹を満たすために入店する浅草ラーメン(一杯200円)、とまあ青山も渋谷も麻布もへったくれもないローカルな街でしかなかったため、松本隆を気取るにはただしんどい街だった。だがなんにもない田舎がゆえ、得る情報の密度、熟成度はより濃密になっていく。もちろん年齢もある。14歳から始まって17歳ぐらいまでの感受性で受け止めた価値観はその後の一生を決めてしまう重みがある。


人生は伏線回収の旅だ。どこまで気がつくことができるか。ボクはそのひとの人生の価値はそこで決まると思っている。スピリチュアルな話をしたいわけじゃないが、偶然は必然である。


10代、特に14歳の感性で受信した多くのカルチャーがその後の人生の指針となる。
それは「藝人春秋」の中でも甲本ヒロトの章で語られているし、実際ボクのすべての価値観は1984年に作られたと断言してもいい。ボクの中でのポップ・カルチャー元年。まだ放送作家と兼業で作詞家をやっていた秋元康が時代の仕掛け人として飛び出してくるのは翌年以降のことだ。長渕剛や伊武雅刃、稲垣潤一のヒット曲の作詞で注目を集めつつはあったがとんねるず、おニャン子クラブの一連の仕事で一気に時代の寵児となっていくのは85〜6年。だが84年に菊池桃子に提供した「青春のいじわる」「SUMMER EYES」の歌詞を読めば、作詞家秋元康の真骨頂はすでに確立されているのがわかる。君と僕が奏でる青春の1ページ。淡々と綴られる情景描写だけであの年齢特有の切なさを描くことこそ秋元康であり、今もAKBや坂道シリーズの楽曲で変わらぬ魅力は発揮され続けている。


ゆるい坂道 錆びたバス停 遠い街が黄昏てく
君は僕から少し離れて ガードレール腰掛けてた
(菊池桃子「青春のいじわる」より)

ボクは1984年4月に「青春のいじわる」でデビューした菊池桃子のファンだ。


作詞は秋元康で作曲は今や世界的にヒットしたシティ・ポップブームの代名詞でもある「真夜中のドア」でおなじみ林哲司。88年、RAMUでのロックバンド宣言の折はファンなので桃子を擁護、ロッキンオンのディープ読者だったS君と大喧嘩し10日ほど口をきかなかった。ロックではない。そんなことは100も承知でボクは桃子の勇気ある宣言を全面肯定した。ファンとはそういうものじゃないか。だがあれから30年以上経過しRAMUはシティ・ポップ文脈で再評価を受けアナログ盤が高騰、1転してオシャレなアイテムとなってしまった。まさかなァ、こんなことになるとは1989年には思いもよらなかった。

ちなみに彼女とは会えたことがない。だがRAMUの元メンバー関係者とは遭遇したことがある。あれは5年ほど前か。打ち合わせでやってきた初対面の男性。海外アーティスト招聘を主な仕事にしていると彼は語っていたが、いろいろ話をしてたらなぜかシティポップの話になり話題はRAMUに行き着いた。


「ああ、RAMUね。あのバックコーラスやってた黒人の女性いるでしょ。アレね、うちのかみさん。国際結婚だったんだよねぇ。アハ」
さてこの出会いがボクと菊池桃子の邂逅につながるのか。もう5年以上経過しているがまったくその気配はない。



50を過ぎてから、人生の前半生は物語の「伏線」。読書で例えれば「付箋」だらけだと気がついた。
その回収に向かい、物語の頁をめくるのが後半生だ。
                            (藝人春秋Diary 504頁冒頭より)
藝人春秋シリーズとして4冊目となる今回、いちばんボクに突き刺さった言葉だ。


20代のときはわからなかった。
30代でも無理だった。
40代にして「なんとなく」わかる。

そしていま、水道橋博士が綴る、ひとつひとつの言葉がボクの胸に深く深く鳴り響く。


「言葉はダイアモンドなんだ」作詞家として80年代に多くのヒット曲を飛ばした売野雅男は月刊明星の付録歌本「YOUNG SONG」、通称ヤンソンで自身の「歌詞」についてそう語った。この言葉に深く感銘を受けたボクはノートに言葉を綴るようになった。作詞家になりたいとかそんな大それた夢があったわけじゃないが売野雅男風の歌詞、松本隆風の歌詞を日々1編づつ書き記した。なんせ言葉はダイアモンドだ。自分が綴る言葉は石ころ以下の原石だろうと磨けば光るのかもしれない。とにかく高校3年間、ボクは1日1編の歌詞を必ず書いた。

この経験は2014年の夏になり役に立つこととなった。いろいろありボクは作詞を行うことになり
とあるアイドルに6曲ほど歌詞を書いている。締め切りまで3日もない中、必死でボクは言葉をつむいだ。


14歳のボクはとあるバンドを好きになった。

84年7月にデビューした全員法政大学出身のバンドだった。福岡上京組のチェッカーズやミニFM局発和製ビーチボーイズ的な雰囲気のココナッツボーイズ(のちのC-C-B)よりもルーズでロックンロールな匂いがしたのだ。

そのバンドは2年ほどで解散するがメンバーのひとりはロンドンへ旅立ち、帰国後作曲家として活動し、DJなどクラブシーンへも移行しながら今も現役ポップユニットのリーダーとして活動を続けている。ボクは彼が作る曲が好きだったのでネットもない時代、よくもまあ追いかけれたと自分でも思うがアイドルへの提供楽曲ふくめほぼ網羅し、ボクが30代後半の頃、一緒に仕事をするまでになった。

後年、ボクは音楽業界に身を置くことになり、
そのポップユニットをボクがA&R担当することになったとき、「え?なんで」との声が多かったのは確かだ。
どっちかといえばインディーシーンのギターバンド好き。それが当時のボクのパブリックイメージ。
洒落たポップスってのがどうにもボクに似合わないって意見がほんとに多かった。
「いやいや、ダイスケさん、昔から応援してたじゃないですか」とありがたい言葉をくれたのは
NONA REEVESの西寺郷太くんだけだった。

ちなみにボクは長年の疑問があった。

そのバンドは元かぐや姫の山田パンダプロデュースでデビューを果たし、1曲目でブレイクするも2年あまりで解散。あまりに唐突な解散劇とリードボーカルの消息がつかめず、2000年代前半に本人のブログをつきとめ、「解散から20年」経過した2006年末に一夜限りの再結成をボクは仕掛けた。場所は渋谷エッグマン。そのときの一連の行動に関して期間限定のブログをプロデュースさせていただいた。あの時代のザ・芸能界の雰囲気がリアルにわかる内容なのでぜひご拝読していただきたい。

http://blog.livedoor.jp/katokeach/

ちなみにこのバンド、あまりの柄が悪いキャラで「笑っていいとも」テレフォンショッキングに登場した際にむちゃくちゃひいたという伝説を持っている。現在YouTubeに転がっているその映像を見ると納得。明星や平凡でアイドル的露出を毎月のようにしていたバンドにはとても思えない。もしロッキンオン・ジャパンが当時あったら絶対そっちだったろうに。

そしてこのリードボーカルが一時期ビートたけしバンドのギタリストをやっていたのはこのとき初めて知った事実だった。まったく気づかなかった。

ビートたけしといえばたけし軍団。たけし軍団とくれば浅草キッド、そして水道橋博士だ。


ボクが水道橋博士WORKSを追いかけウォッチし続けているのはこのnoteで何度も書いている。
「藝人春秋Diary」も当然即購入。この(現時点での)博士WROKS最高傑作を論じなければいけないと勝手に義務感を背負いPCに向かったものの、この分厚い1冊をめぐる思いは日を追うごとに膨らむ一方で書けば書くほど文章は止まらず、ボクは途中何度も挫折した。たかが自分勝手に書いてるnoteでの書評なのに。いっそ書くのをやめて阿佐ヶ谷ロフト前に陣取り博士に直訴しようと思ったこともあるがさすがにそれは思いとどまった。

一読して思ったのはこれまでのシリーズものとはまるで違うこと。
2021年に出版されたすべての本の中で、少なくても10年、いや100年後も残っていく可能性があること。
網羅された江口寿史のイラストが秀逸すぎること(これだけで1冊5000円でも買う)も忘れちゃいけない。



2000年代初頭、ボクは高円寺に住んでいた頃がある。


深夜帰れなくなりタクシーに乗ったときに「このへん芸人さんが多く住んでるんだよね。昨日もあのひと乗っけたんだよなァ。あの、ほら、、、リアクション芸のうまい3人組でさ。ダァーとかやるやつ」
「ダチョウ倶楽部のことですかね?」
「そう。その中の⚪︎⚪︎。住んでるのこのへんなのかね?」
「へええ」
「聞いた話だとなんとか会とか言って飲み会やってるらしいんだけどね。けっこう有名なひとが参加してたみたいですよ。ほら、あのひと。なんつったっけなあ、、コンビで歌やってたじゃないの。白い雲のなんとかとか歌ってた」
そのあのひとこそ、有吉弘行だ。猿岩石を経て長き沈黙の期間を経てのヴァラエティタレントとして一大再ブレイク。このころはまさに雌伏の時期。このタクシー運転手との会話でボクは上島会の存在を知った。


ボクはその日新高円寺の交差点あたりでタクシーを降りた。


高円寺駅前の「大将」という飲み屋で友人と待ち合わせをしていたので、そのまま乗っていったほうが早かったのだが「なんとなく」降りようと思ったのだ。そのまま商店街を突っ切っていけば「大将」にたどり着くのはそれほど時間はかからない。その日ボクは新宿ロフトのイベントでDJを担当し光GENJIや田原俊彦、少年隊の楽曲を爆音で鳴らし続け少々疲れていた。商店街をとぼとぼと歩き七つ森という喫茶店を越えたあたりでボクは忘れることができないある光景に出くわすことになる。


繰り返そう。


人生は伏線回収の旅だ。そしてボクが目の当たりにした光景もまたボクの人生において唐突にあらわれた伏線だった。

第1章に続く。

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