小説 猫に助けられる(2012年)

 夕暮れの時刻だった。燃えているように赤い、まるでオレンジ色をした、液状化したトパーズみたいな黄昏だった。――この国の東の方にある東京の、渋谷の街に僕は立っている。スクランブル交差点の向こう側、街の大通りに面した、大きなビルには巨大なホログラム装置が置かれ、そこから中空に、ホログラフィーになった美少女アイドルグループが、カメラアングルを次々と変えながら歌って踊っていた。どうもこのアイドルたちは、人間ではなくて、CGか何かで合成されているらしく、観測する角度によって、色使いと硬さと、それから透明度を変化させる、特異な結晶体が寄り集まってできていた。天使のように美しい、人形みたいな、というよりも実際に人形であるようだった。

 彼女たちはどことなく感じ取られる機械っぽさと人間らしさを、絶妙なバランスで混ぜ合わせたような、とても人工的な、いわば人の欲望によって計算されて、快くも同時に不気味さを感じさせる、あどけないたどたどしさを残していた。不気味の谷、という言葉を連想した。ぎこちなくて、無表情な、発声の仕方だった。きゃらきゃらと、華やかで、ほんのこころもちはた迷惑な雰囲気だった。そこはかとなくパターン化した、どこかで聴いたことがあるはずなのに、今までどこでも聴いたことがなかったような気にさせられる、なにかうさんくさい、奇妙なおしゃべりや歌声だったり、マリアカラス張りのベルカント唄法で唄ったりしていた。それを彼女たちはものすごい早口で繰り返していた。

 それはものすごい早口なのにもかかわらず、その言葉のひとつひとつは余すところなく聴き取ることができた。その内容も把握することができた。――そうしてその口吻や内容からは、消費大衆社会らしい、白っぽく混濁した黄土色のようなほのかな腐敗臭が、暁色の夕暮れの空に、ふわふわふわふわまつわりのぼってきた。そうしてそれは彼女たちのすばらしく人工的な歌声や外見が廻りに醸し出すきらきらとした雰囲気と混ざりあって、ひとつの交響曲のように音楽的な効果がそこに生まれでていった。

 それは全く幽霊のようで、実際幽霊というものが物体に対してよく知られている有名な図々しさと同じような種類のあつかましさを発揮して、ショーウインドーのガラスを透過して、具現化していくのだった。その声の肌理からまつわりのぼってくる、麝香のようになまめかしくて、ほのかで人を惹きつけるようなみずみずしい腐敗臭が、街中に薄くたなびいていっては、通りすがりの見物人たちの鼻腔や鼓膜に付着していくのだった。

 そうしてそれは腐敗臭らしく、資本主義社会の精華であるどうしようもない倦怠感や無力感や嫌悪感などを浸透させていくのだった。それはしおれたヒヤシンスのように、生臭い虚無感や不安や苛立ちを、人々の、特に男どもの意識にくゆらせていった。まるで、そうすることで、この白っぽいやつらは自分自身の性的欲求や捕食本能や自己顕示欲を満足させていくかのようだった。

 とはいえ、それはある種の頭の曲がった、人生にたいして自暴自棄になっている、やけっぱちな男たちにとっては、見方を変えれば、死と絶望の美しい夢物語を引き起こさせる、メランコリックなやさしさと、きらめきと甘さとデカダンスの癒着状態の特異な一例として、記憶されうる屈折的な歌声であり芳香だった。

 そういうわけで、街を歩いていた男たちのある者は悲しそうにそしてあるものは幸せそうにして、みんな地面にへたりこんでしまうのだった。そうして、鼻とか耳とかに侵入してくる音楽に、頭をかかえて、苦しそうにうなだれてしまうのだった。自動車やバイクに乗っている人たちもその例に漏れなかった。そのために街中で消極的な交通事故が多発して、爆発が起きた。それに引き続いて火事も起きた。

 まるで罠にかかった免疫システムの連鎖反応のように、それに引き続いて出動した救急車たちや消防車たちの運転手たちも、同じ憂き目にあった。それで、この大災害はとどまることを知らなかった。

 電車は脱線した。飛行機は墜落した。証券取引所は業務を停止した。高層ビルで働いている会社員たちはこれみよがしに窓ガラスを破壊してビルの窓から飛び降りていった。何もかもめちゃくちゃだった。何もかもこのCG化されたセイレーンたちのせいだった。

 ――さて、原敬という名前の男が街にいた。彼は実際にあの有名な原敬で、丁寧に仕立てられた、ツイードのスーツの上下を、いつも上品に着こなしていた。昔の日本人らしく、その体付きは胴長短足で、そうしてとても背が低かった。彼はそのことをいつも気にしてはいたのだが、それでもこの国の宰相なのだった。

 その日彼は町外れにそびえている、とても高いビルの屋上から、望遠鏡で、街の様子をずっと眺めていた。

 街のいたるところで爆発が起きて、煙がもうもうと立ちのぼっていた。街のいたるところでは男たちが絶望していた。出鱈目に運転しては、街路樹や建物たちに衝突していく車の群れが、蜘蛛の子を散らすように、ちらちらと見えた。

 ずっと凝視していたせいで、なんとなく肩が疲れてきたので、彼は望遠鏡から目を放した。そうして少し後ずさりしたあと、「ふーっ」とため息をつきながら両まぶたを閉じて、両手を腰の上に置いた。そうしてゆっくり両目を開いた。

 すると黄昏の空を背景にして、黄金色のしろっぽい光の網目のようなものがふんわりと浮かび上がっていた。それは、あわあわとしたオーロラのうすもののような、奇妙な玉虫色をようようとうかべて、視界いっぱいに広がっていくのだった。

 それはまるで、空一面に充実していく、光で織り成された蜘蛛の巣だった。しだいしだいに、その膜の裏っかわから、何かきよらかな真水のように透き通った、そうしてあどけなくてうさんくさい、プラスチックのような、人工甘味料のような、例のアイドルたちの高い歌声が聴こえてくるのだった。

 その歌声に引きづられてくるかのように、少し遅れて、何かよく分からない、こだまのような感覚が広がりはじめていった。はじめは何かの抽象的な存在感のような感覚だったが、時が経つにつれて、それは大音響のような圧迫感に変わっていくのだった。

 何かが、あたり一面で溢れかえるように渦巻きはじめ、どおお、どおお、と、空全体に沸き返っていた。目の前だけでなく、耳のあたりでも肩のあたりでも、そうして背中のあたりまでも、ぶつぶつと大きな鳥肌がたっているようだった。

 彼の体の皮膚のすべては、足場をなくして泡立っていた。原敬は圧倒されて、魅了されたように屋上で立ち竦んでいた。それは荘厳でありながらどこかおぞましい、何か人を不安にさせるような、なまなましい恍惚だった。

 けれども、同時にそれはとても懐かしい、まるで欲望そのものの作り出す純粋な音楽に、体中の物理的な性質を換骨奪胎させられて、砂糖や卵や小麦粉と一緒にボールの中でかき回されていく生クリームの姿にでもなったみたいに、自分自身が蹂躙されたまま泡立てられていくような感覚だった。

 彼はすっかりわれを忘れていた。――気付いた時には、彼はよろよろと歩きだし、身体保全のために屋上の端についている黒い金網を乗り越えようと、冷たい網目に両手でしがみついて、片足をかけているのだった。その向こう側に広がっているとても大きな、大きな、大きな――あの何か大きな空気の交響させる、都会の空中に広がっている、壮大なる欲望の偉大なオーケストラの黄金色の渦のなかに、今にも自分をなげやってしまって、その中に混ざりこんで、どうにかなってしまいたいと思っているのだった。

 けれども、幸か不幸か、彼はどうにか、かろうじて踏みとどまることができた。

 意志や理性の力ではなかった。全くの偶然がそこに介在した。彼が今にも身投げしようと、黒いビジネスシューズの先端を金網に引っ掛けたその刹那、「やぅー」という響きの、小さな獣の力ない鳴き声が、ふうっと聞こえた。

 反射的に左の方に首を伸ばすと、ずうっと向こうの、鉄条網の、角の所に、二匹の猫が、ちょこんと座って乗っかって、しっぽをひょろひょろさせながら、お互いの毛づくろいでもしているのだろうか、じゃれあっているのか、互いの鼻を近づけて、密接させたお互いの身体の隅々を嗅ぎ合うように、くいくいくいくい動かしているのだった。

 そのまましばらく見ていると、のどをぐぉるぐぉる鳴らしたり、時折なぁあぅと鳴いたりしている。

 と、気がつくと、音楽はすっかり止んでいた。振り返ると、街の爆発は消えていた。すべてがもとに戻っていた。道路ではタクシーや自動車が、クラクションをブーブーならして、行き交っていた。歩道では、買い物をしている人たちや、家路を急ぐ制服姿の中学生などがぱらぱらと、蟻のように蠢いていた。

 そうして、彼は彼自身が今までに見たことも聞いたことも感じたことも考えたこともなかったような、全く別の、別の人間になっている気がした。自分が誰なのか、もうわからなかった。

 遠くから見ると、夕陽を浴びて、半分くらい影になっているその顔つきは、無表情で、何を考えているのかはよくわからなかった。何も考えていないのかもしれなかった。あるいは何も考えてないふりをしているのかもしれなかった。

 自分が何も考えてないふりをしているように見えるようなふりをしているのかさえも、自分ではわかっていないのかもしれなかった。それは深読みしがちな人の眼から見るとそう見えるというだけで、別になんでもないのかもしれなかった。

(2012年 2018年推敲)

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