小説 人魚姫のモノローグ(2012年)

あの採血管の中では、血小板や、白血球が、たくさんの白玉のようにくっついて、まるまっているのだろうか、とあたしは思っていた。

意識も気持ちも抜き取られたまま、なかば夢うつつの、固くて透明な窓を見ていたの。

――その中庭では、百合の花。アネモネの花。ペチュニアにダリア。グラジオラスに、
スズランに、ヒヤシンスの花。ユキヤナギの花も、咲いていた。色とりどりのドレスを着た人たちがたくさんいるんだ、と思った。

そのひとたちの踊るのを見ていると、自分と他人のさかいめも、遠近法も、まとまりのよさも、なくしてしまいそうな気がするの。
陽炎みたいに、もやっとしずかに淡くなり、そうかと思えばさあっと歌って、鮮やかになった。

――この部屋にいるのは、両手の手首を切ったせい。それからたくさんの針で体中を縫いつけたせい。だって切られてしまったのは手先だけじゃなかったから。
こんなことを言ったらあなたはなんて言うだろう、外見のほとんど変わらないあたしを見て、からかうなよって、笑ってまともに取り合ってもくれないのかもしれない。

だけれどたとえば、あなたの科白のひとつひとつが、あなたの視線のひとつひとつが、あなたの声のひとつひとつが、あたしのからだに穴をあけてしまう。
あたしはいつでも、その穴のなかに、飲み込まれてしまいそうになる――そうしてそれがとてもこわかったの。

だって、気がついたら、あたしの家は、どこが壁で、どこが花壇で、どこが窓なのかも、わからなくなっていたのだから。

――雑誌を手にとってみても、新聞を読んでも、テレビを見ても、駄目だった。
なにかひとの書いた黒い線を見たら、その線のなかにあたしの体は落ちてしまう。
そのたびにあたしは、なんどもなんども、落とした自分のからだをさがすの。
だけれどあたしはみつかりはしない。
あたしはからだの中に自分のお墓を作らなくちゃいけなくなる。
――文字を見るたびに、印刷された言葉を見るたびに、あたしはここからいなくなる。

――ぬけだせないで、みえないところにいってしまうの。

だってそこには凹凸もなくて、高さも時間もなくしているから、あたしは手で掴むものが何もない。
 あたしがこうして話しているのは、そういうわけなの。
これはあたしの声だから。あたしは自分が飲み込まれたって平気なのだと、知っているのね。

この病室には、文字がない、だれもいない。
そうしてあたしは、お母さんの買ってきてくれたノートに、じぶんの書いた字で書いている。――用事のある時は、いつでもそうする。

そうすれば他の人の声を聞かなくてすむから。――けっして誰かとはなしたりしない、まるで陸に上がった人魚姫みたいに。

――あなたは人魚姫のお話を読んだことはあるかしら。

あたしこどものころに何度も繰り返して読み聞かせてもらってた、おかしいでしょう、何度も、何度も、同じ物語を話してもらうように、繰り返してせがんでいたって、お父さんは笑っていうのよ。

そう、覚えてる、体中が痛くてしかたがないのに、王子様のために踊っていたの、死んでからしか幸せになれなかった、とてもきれいな声と髪の毛を持っていたのに、人間になるために魔女にあげてしまった。

あたしだって、人間になるために頑張っていた。
ふつうの人たちがうらやましかった。
だけれどあなたは、あたしの話なんてとりあってくれなかった。
あたしがあんなに見つめていたのに、あたしが自分のことを話さないのを、嫌がっていたのね。

――だけれどあたしが踊ってた頃には、いつも見に来てくれた。
はじめてバレエの主役に選ばれた時のこと、覚えてる?
あたしたちはまだ二人とも十代だった、楽屋裏で、みんなが拍手をしてあたしを迎えに来てくれた。
――あなたは人のことを褒めるのになれてなくて、恥ずかしそうにしていた。――ジゼルとてもよかったよって。
あたしは自分まで恥ずかしくなってしまいそうで、それが全部顔にでてしまってるんじゃないかって、どうすればいいのかわからなかった。

――あの日はとてもよく晴れた日だったから、舞台の後で、みんなで一緒に歩いたイチョウ並木の緑がとてもきれいだった。

――あたし今でもこの部屋で踊るの、昔みたいに、もう飛び跳ねたり、ステップを踏んだりはできないけれど、それでも優美に動くことはできる。
それでついついあたしのことを見てくれるだろうかって思う。そうしてすぐに空想ばかりしてしまうのね。

―そう、こんな風にして毎日を過ごしているの、だけれど、今でもやっぱりよく考える、どうしてあんなふうにあたしの事を見ていたの、口ではあんなふうに、何もかも終わったと言っていたくせに。あたしがかんたんに信じてしまい過ぎていたの、それともあたしが簡単に疑いすぎていたの、そうならあたしは、疑うことを信じすぎたの。

何度も、何度も、お墓の中に、消えたじぶんの体を埋めたわ、両手からこぼれるくらいの花をしきつめて、開いた裂け目を縫うように――それが済んだら、きれいに動く練習をするの、部屋の中で。――あしゆびのつまさきだけであるいていく、それを何度も繰り返してるの。

――でも気を抜くと、すぐにあたしは眠ってしまうの、魔法のかかった、黒百合の花粉を吸い込んだみたいに。――せすじのあたりから、くらがりが水のようにたちこめてくる。まるであたしがこどもだった頃の、お母さんの髪の毛みたいに、とても豊かで、つやのある夜が。

――その夜の奥では、まるで水の中で火花をちらすみたいに、どこかで聞いたことのある声が、脈絡も持たずに聞こえてくるの。とてもこわくてしかたがないのに、あたしはすすんで、その夜の中に自分をゆだねてしまう。

だけど――たくさんのことがあったはずなのに、いつも同じね。あたしは目覚める。いつもと同じように、ひどく疲れている自分を見つける。

――だけれど今日はね。窓の外では、涼しい風が吹いている。

眠る前には、春の季節は、曖昧で、よどんでいるようだったのに、今は、あたりの空気は、のけぞるように晴れやかで、緑はまるで、余計なものを取り除かれたように、澄んでいる。そしたらあたしは安心するの。だって、木の葉のそよぎのひとつひとつが、生まれたばかりの赤ちゃんみたいに、泣いたり笑ったり、してるから。

――心配なことなんて何一つないから、そのままあたしは、そよぎの中に落ちていく。そしたらそよぎは、あたしのことを受けいれてくれるから、あたしはこどもの頃に戻ったみたいになる。

――そしたらほらね、あたしはもう物語の中にいる。人魚姫とおんなじように、あたしは風の精になる。そうしてみんなと一緒になって、泣いている。そうして笑うの。

――一緒になって、誰も人のいない病室が、仲良く並んでいる廊下を通っていくの。

壁の灰色。新しいシーツの、洗剤の匂いのする白。カーテンの白は、植物の匂いがかすかにしみこんでいる。

――中庭に面した飾り窓の外では、細やかな形をした、エメラルドたちが、ゆれている。

――あたしがそこを通り過ぎるたびに、鈴のような音をたてて、ほら、歌っている、光は庭一面に降りそそいでいる、無邪気な子でも、内気な子でも、無心になって歌っている、色とりどりの花々は、さっきからずっと踊っている、地面を行き交う虫たちも、雀や雲雀も、声も出さずに歌っている。――甲羅の色も、葉の肉質も、鳥たちのお腹も、いつもより随分鮮やかなようなの。――今年の春はとてもきれいねってあたしは思う。

――この風のどこかに、あたしたちがまだ10代だった頃の、あの頃に通じている、ガラス窓があるような気がする。

そこをあければ、いつかのあたしたちに会うことができるの。

みんなが拍手してあたしのことを出迎えて――あなたはそこで、あたしのことを待っていてくれるの。

(2012年 短編「採血管と泡の幻覚」を推敲)

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