散文詩 雨をめぐる断片(2007年)

真鍮でできた蝶番を回して、ドアを開けた。途端にどっと大量の水が流れ込んできて足元が冷たくなった。ちょうど膝下のあたりまで水に浸かった。目の前に広がっていたのは、ちぎれた綿のようにやわらかい、雲の帯で装飾された青空と、尽きることのない海だった。彼方には黒くて細長い塊が、白い煙をなびかせて静止していた。驚愕したわたしは、部屋の片隅に置かれたリンネルのベッドに勢い良く横倒れした。ベッドの足もすっかり水浸しになって、小さな波飛沫にさっきからずっと執拗に撫でられている。

* * *

「水平線では、空と海とが区別の隈なく混稀している。この世のどこかでは、海水が、逆さまになったナイアガラの滝の大瀑布みたいに、上昇していく場所がある。そこでは物凄い轟音が響きわたって、大量の水煙が霧をつくって、それが雲になって地球上に拡がっていく」――これは古今東西、世界各地の色々な場所で、空全体から大量の魚達が、銀色の雨になって降ってくるという事件が、様々な古文書に記録されているという事実を説明するために、子供の頃に、オカルト好きではあったものの、科学的な知識を全く持たなかったわたしが想像した仮説だった。わたしはそのまま夢を見続けた。

* * *

雨の代わりに人が次々に降っている。黒い夢の空間の底から、降り続いていく人々たちのほの白い面影が、ひとりでにまつわりのぼってくる。それを見ているわたしの視点は、背後の高い空に向かって、風に吹かれてどんどん遠ざかっていく。それにつられて、人々の姿も次第に小さな塊になって、小さな小さな塊になっていく。それらはみんな、無数の微光の直線になって、人の誰もいなくなったせいで、灯の消えた、夜の街を濡らしていた。耳元が澄んでいくような清潔な音が、続けざまに立てられていて、とどまるところを知らないでいる。

* *

雨たちはずっと降っていた。同じ顔つき、同じ表情をして。全く同じでない場面状況の中で。無数の過去が、デスマスクのようになって、降っている気がする。目には見えない、耳にしか聴こえない泡沫たちが、立ち現れては消えていく。――雨を降らせている雲のどこかには、通り過ぎてしまった時間たちの貯蔵庫が、でなければ製造工場か、それとも養殖施設のようなものが広がっているのだと思う。――そうしてそこでは色とりどりの光を放って、小さな爆破が繰り返されている。まるで海底火山が小さな噴火を起こしたみたいに。まるで水の中に無数のダイナマイトが仕掛けられたみたいに。――煙と泡とが綯交ぜになった、やわらかい、茫洋とした輪郭が、あわあわと拡がっていく。それはわたしの心理的な現実を形づくっている、精神世界のすみずみを、侵食してしまう。――そのせいでこんな風に雨が降っているんだと思う。そのせいで、雨が降っているのをこんな風に感じているんだと思う。――背中は奇妙に冷たくなって、まるで脊髄のなかに水銀を流し込まれたみたいになる。背筋の先から、体中に冷やかな液体がひろがっていく。髪の毛も服もすっかり濡れている、裸のわたしは水銀灯のように凍てついて、けれどもそのうち、マグネシウムの火花が、水のどこかで連続して揮発する。とても眩しい。わたしは眼を開けていられない。体から剥がれて落ちていってしまう。

わたしは宙返りしながら、ゆっくり地面に降りていく。着地した瞬間、それは銀色に輝く翼をつけて、雨の振り続けている灰色の街のどこかに、飛び立っていく。そのあとには、ひややかな蒸気があたりに残され揺れている――このままなにもかも雨足に蹂躙されて消え失せてしまえばいいのに。ただ純粋な感受性だけに変化して、透徹している時空の流れの一部になって、どこまでもどこまでもそこに寄り添っていたくなる。――そういえば世界は一匹の魚でできていると何かの本で読んだことがある。わたしはたとえば魚になって、どこまでもどこまでも泳いでいきたいと思う。すべてのイメージや、すべての言葉が、すべての出会いや、それから別れが、生まれては消えて、新陳代謝していく瞬間の奥で、次々に輪廻転生を繰り返していく、果てることのない、可能性の海の中で。わたしは長い背びれや尾ひれをぴらぴら揺らしてその中を泳ぐ。とても大きいオーロラを集めたドレスを着ているみたいに。

* * *

でも気がつくと、わたしは荒地に立っている。あたりは真っ暗になっていて、地上はばらばらに砕け散った、薄い水晶のかけらたちで一杯だった。そうしてそのかけらたちのなかでは、色や形の異なる炎が、しずかにほのほの揺れていた。これは普通の火とは別の組成を、化学式をもった火なのだとわたしは思った。すると空のむこうでは、とても大きい、青い魚のような生き物たちが、羽をつけて飛び交っているのが見えた。そうしてそれらの隙間を縫うように、大勢の難民が、異常発生した昆虫みたいに、そこらじゅうに群がって、逃げ惑っているのが見えた。彼らはみんなみすぼらしい服を着て、異国の言葉で大声でしゃべっていた。でもその中には、見覚えのある顔がいくつも見えた。それは友達や恋人や両親の顔だった。空飛ぶ魚たちは、とても遠くを飛んでいたので、どれくらいの大きさなのかははっきりしなかったけれど、随分大きく、五十匹以上はいたと思う。みんな一様に、くちもとをぱくぱく動かして、時々下の群衆に向かって滑空して、彼らを食べているのだった。あるいは時々、思いついたように、口から緑色の火を吐き出して、そうして恐慌状態の人々を焼き殺していくのだった。

(2007年頃執筆し2012年完成)

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