なぜ僕は政治に興味がなかったのか
「みんなの社会科」にふさわしいテーマって何だろう?まずは自分自身の歴史を紐解くことから始めてみたい。僕の祖父は町長だった。岡山の田舎、小さな、ほんとうに小さな町の長(おさ)。近くの農業高校を出て、近くの町役場で働き、今でいう政治という世界に目覚めたようだった。恐らく、町の人は全員顔見知り、現代の大都会では考えられないような狭い社会。地縁や血縁が色濃く残る世間。そんな環境の中で政治家を志したようだ。
しかし、これはあくまでも孫の推察に過ぎない。なぜなら、本人に確認を取っていないからだ。祖父は僕が三歳の時に交通事故で他界してしまった。ものごころがつく前に姿を消し、遺影となった燕尾服姿の写真しか面影を残してくれていない。聞くところによると、祖父の葬式には弔問客が500人を超えていたと、わが家系の都鄙伝説が残っている。どんな政治をしていたのかはわからないが、それなりに信頼関係を築いていたに違いない。
父は政治家の道に進まなかった。学生時代はジャーナリストに憧れていたようだ。政治家は愛や力で人を動かす。ジャーナリストはペンひとつで人を動かす。そんな風に考えていたのかもしれない。しかし、家庭の事情や本人の堕落もあって、大学を卒業したのが25歳。その時代は新卒の年齢制限があったとやらで新聞社への門戸は閉ざされていた。結局、まったく脈絡もなく金融業界で職を得る。ペンではなく、金で人を動かす世界で生きてきた。
わが家系にはいくつか共通点が見受けられる。ひとつは、父親の歩んだ道を選ばない。そしてもうひとつは、人を動かす、ありていに言えばリーダーシップへの願望が強い。後者の点についてもう少し補足をしておく。例えば、父は無類の読書家だった。いや、正確に言えば、本を熟読している訳ではない。いい言葉を拾っている、そんな感じで本のページをめくっていた。それはどうしてか?理由は簡単。人のこころに響く言葉で武装したかったのだ。
父のこんな性癖は僕や僕の息子にも遺伝的に継承されている。わが家に父僕合計で5000冊以上の蔵書があることが何よりの証だろう。ただし、読んだ形跡のない本が多いのも事実。買ったものの数十ページで読むのを断念したと思われるものは、織り込まれた栞(しおり)を観れば誰にも明らかだ。まさに実用的な読書。その時々の関心から、言葉を採取することに主眼が置かれているし、その大きな目的は人を動かすことに力点がある。
さて、本題の政治だ。祖父の歩んだ政治だからこそ、父も僕も避けてきたに違いない。意識的というより無意識に。親子で競争したくない。そんな気持ちもあったのだろう。互いに比較されるのも好きではない。何より道を切り開く方がロマンがある。ただし、父の場合、選挙が大好きだった。選挙速報などがあればはじめからおわりまで観ていたし、知り合いが出馬する際には選挙事務所で陣頭指揮をとっていたことを思い出す。
その反動か、僕の場合は、政治についてまったく無関心だった。そう、つい半年ほど前までは。そこでコロナ禍。僕の人生を180度転回させたステイホーム。仕事はほとんどなくなり、金はなくなる一方だったが、時はあり余るほど豊かになった。まずは、歴史を現代から遡ってみた。社会を理解するために、地理、政治、倫理・哲学、思想・言語、宗教など、社会科全般についての蔵書を読み漁り、専門家の言説をシャワーのように浴びてみた。
そんな生活を半年ほど経た時に出会ったのがこの映画だった。大島新監督作品の「なぜ君は総理大臣になれないのか」。衆議院議員の小川淳也さんにスポットライトを当てながら、小川さんという人物を通して日本の政治システムの現状を学ぶことができた。そして、あらためてどうして僕が政治に興味を持てなかったのか、いや失っていったのかを思い出せた。また、政治について本当に無知であったことも大いに反省できた。
そして明日、その大島新監督と小川淳也議員、お二人とお会いできる機会に恵まれた。たまたま関心を持つことで、こうしたご縁は生まれるものだ。今も少し興奮している。映画はまだ観ていないけど、質問したいことだけは山のようにある。もちろん時間が限られているので、1点のみに絞り込むつもりだ。テーマは歴史観と民主的対話だ。これはコインの表と裏の関係にあるので合わせて伺いたい。要約するとこんな感じだろうか。
「歴史観はどうして大切なのでしょうか?民主的社会の実現にとってどのような意味や意義があるのでしょうか?」
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