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第一回ミンナ教学概説A

さて"みんなが正しい"と考えて生きて死ぬのが良いとされる宗教であるミンナ教について知ってゆく行為全般のことを僕は「ミンナ教学」と呼んでいる。2021年の春にこのミンナ教という仮説をドドーンと打ち立てて以来、僕はミンナ教における概念をいくつか発見し、それを表現するための専門用語をいくつか発明したので、今回はそれについて簡単に解説したいと思う。もちろんミンナ教学もまたひとりひとりによって為されるものであり、必ずしも僕のミンナ教学のかたちがいつもいつも正しいと言うつもりは全くない。しかし少なくとも私は現段階まででこのように考えてきましたということを提示しておくことは、今後のミンナ教学全体の深まりのために鼻クソほどの役にも立たないということもないのではないかと思う。ではこれから先ほど言ったように、ミンナ教学内における概念の用語を解説するが、それによって僕の考えるミンナ教がそもそもどのようなものであるかも同時に浮き上がってくるのではないかと目論んでもいる。だがまず最初に述べておきたい。なぜ私達はミンナ教を知る必要があるのか?同じ間違いをしないためである。ミンナ教がどのような宗教であるかを事前に知っていれば、同じことをせずに済む可能性を高めることができる。どうすれば正しくあれるかを見定めるのは時に困難を極めるが、どうすれば間違えずに済むかを知るのは比較的容易なのである。そしてなんといっても私達はお互いに多かれ少なかれミンナ教の出身であるはずだ。体内にはまだその名残があり、アザが残っているはずだ。あるいはその土壌が、栄養がまだ蓄えられているはずだ。少なくともそれに注意を払いながら生きてゆくことは決して悪いことではないし、自らの腹の腑分けの際の役にも立つだろう。では始めよう。

まずそもそも「ミンナ」というのは何か。これはミンナ教における神の名前だ。ある宗教においてその神が絶対的に正しいとされるのは言うまでもない。ミンナ教の教徒(これを"ミンナ教徒"と呼ぶ)はこの「ミンナ」という神に従って生きて死ぬ。ミンナ教学論内においては文脈上わかりやすいように「ミンナ神(しん)」という言い方をすることもあるが、ミンナ教徒はこの言い方はまずしない。彼らはそれが神であることをそのように言語化して対象化する習慣を持たない。ミンナが神であることは当たり前すぎてわざわざそのように客体化する必要が無いからである。彼らはただ単にその神の名を「ミンナ」と日常的に呼び、そして崇めている。

次に「クーキ」という概念がある。これは一般には"空気"のことであるが、彼らミンナ教徒はこのクーキが自分の身に訪れてくるのを待ってから行動や思考を始める。クーキは目には見えないが内容があり、教徒として為すべき指示がそこに含まれてどこからともなく流れてくる。クーキの存在は強い力で教徒の行動や思考を縛り、クーキがまだ到着していないのに行動や思考を勝手に開始することは禁忌である。例えばときおり彼らが集団になった時に誰も何も行動を起こさずにじっと時間が止まっているような不可思議な一瞬が観察されることがあるが、それは集団全体にこのクーキが訪れるのを全員で待っている時間であると考えられる。クーキはミンナ神から産出されてくると考えられる。僕個人としては西洋の古地図の枠外で天使が風を送っているイラストのようにミンナ神が口でぴゅーっと吹いていると楽しいと思うが、実際にどうなっているかはわからない。そしてこのクーキを感知し、また取り扱う能力には教徒の間で多少の差があり、その能力の高い教徒は尊敬される。

次に「ビーテレ」である。これは一般に"テレビ"のことで、ミンナ教にとっての聖書つまりバイブルのことである。キリスト教のプロテスタントでは「聖書に書かれてあるか書かれていないか」が大きなポイントとなっているが、ミンナ教にとってのビーテレも同じと考えて基本的に良いと思う。「ビーテレで言っているか言っていないか」でミンナ教徒の知識や認識や思考や物事の判断基準などの濃淡は大きく変動し、また教徒として何か考えたり行動すべき大事なことがあれば必ずそのビーテレによって伝えられるはずであると信じられているので、それ以外のことについては教徒は特に何もしない。またビーテレにはゲーノージン(一般には"芸能人")と呼ばれるカテゴリーに属する特別な天使または使徒と考えられる存在も数多く登場する。ゲーノージンは華やかで光り輝くその姿によって教徒からは大変に憧れられているために、教徒はゲーノージンの言うことを簡単に聞いたり、やっていることをすぐに真似したりするが、それが教徒同士の生活規範のコンセンサスを形成する役割を果たしている。

では最後に「マワリ」というやや複雑な概念について説明しておきたい。あるひとりの教徒にとって「ミンナ」は実際には姿が見えない神であるのに対して「マワリ」はその生活圏内に現実に実在する実際の人間の"総体"を指す概念であり、しばしばこれが大きな行動指針になっている。というのも世の多くの宗教がそうであるように、時としてミンナ教もまたその教義の内容やクーキやビーテレの理解が教徒にとって難解であることもある。そんなとき彼らは自ら考えてみることはおそらく1ミリもしないまま「マワリがどのようであるか」を基にし、それに従った形で行動や思考を行っていると考えられるケースが多々見られる。しかしそれでは例えばマワリの指示内容がミンナ神の指示内容と相反しているような場合には、ミンナ神に反逆し禁忌を犯すことに繋がる可能性もあるのではないかと一見して思えなくもないが、マワリは結局はその先にはミンナへと繋がっていると信じられているか、あるいはミンナとより強く繋がっていると見做される集合体だけがマワリとしてその中から認知されていると考えてよいのではないかと思う。現にマワリに従って行動し思考しているときの教徒たちはとても充足し満足しているように見える。でもだからといって彼らはマワリを神とは見做していないはずである。なぜなら彼らにとって最も説得力を獲得する言説は「ミンナがどうであるか」であって「マワリがどうであるか」では明らかに無いからだ。また彼らがその神の名であるミンナを口にするときの表情や言動には、恍惚さや切迫さなどの独特の精神的高揚を帯びることが観察されるが、マワリの場合にはこのような現象はあまり起こらないからである。このようにこの「マワリ」という概念は確かに存在が確認できるものの、いくぶんか複雑であり、ミンナ教学全体の中でどのように位置付けてゆくべきか僕もまだうまく見定めることが出来ていないと思う。マワリとミンナを区別したうえでマワリ単独での定性的観察をすることが比較的困難であることも、その理由のひとつではないかと思う。そのためマワリには研究の余地が現段階で大いにある。

さて駆け足で見ていったが概ねこんなところだ。ただしこれがミンナ教学の全てではもちろん無いし、まだ他にも取り上げるべきトピックはいくつもあり、あるいは幾度ものパラダイムシフトを経験しながら、これからもどんどん深まってゆくに違いない。ミンナ教学を進めることによって、一般市民が織りなす平素日常の社会の中の一見わけわからん不可思議な現象もピント良く理解できることもきっと少なくはないはずだ。それは必ず私たちを生きやすくする。そして繰り返しになるが、僕だけがミンナ教学を行っているわけでは決してない。そう、ひとりひとりがミンナ教学家である。どうか、コロナ茶番をきっかけに始まったミンナ教学ムーヴメントの火がいつまでも絶えぬことを願う。お互いにゆっくりと確かに歩を進めてゆきましょう。ご静聴ありがとうございました。


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