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陰謀論としてのフラットアース・地球平面説(edited outtakes)

ときどきTwitterでは「宇宙が無いとかロマン無いよ」とか「丸い地球の方が好きだなあ」とか言う人を見かけることがあるが、前回に紹介した"巨大球体フラットアース説"は全体としては丸いし、陸地や海を持つ他の世界もあるし、さらにその巨大球体の周囲にはなにやら宇宙空間っぽいエリアもあるっちゃあるしで、もしかするとこの"巨大氷球マルチフラットアース説"は、そんな人のためにあるのではないかと思うと可笑しい。この世界には宇宙空間はなくてこの地面も丸くなんかない、だけど宇宙と丸い地球への愛着が捨てられない。どうしても捨てられない。捨てきれていない。そんな人。そんな人がこの世界にはいるのかもしれず、そしてそんな人が巨大球体上の小さな平面大地に不意に惹かれてしまうという状況である。あとそういえばnote記事で「地球は心理的には丸いが物理的には平らなのではないか」と述べている人がいた。ぴったりだ。まったく意味がわからないが、"巨大球体マルチ無限フラットアース説"と相性ぴったりであることは間違いない。完全に一致する。しかしいずれにせよその心持ちは僕の頭蓋骨の外側にあって、まったくわからない。仕方がない。

さてフラットアース/地球平面説は陰謀論なのだろうか。結局のところ、自分の身体を伴った現実での実地の観察を行わないままにフラットアース説を支持するようになった、という人が論者/発信者の場合にそれは陰謀論化する、としか見ようがないのではないか。陰謀論の文脈で編まれ、陰謀論の質感を纏い、陰謀論の語彙が選ばれ、そして陰謀論の口調で語られるということだ。そしてそれを受容し、またパスを回す者もおそらく同じである。自らの観察を通ってきていない。だがこれはとても自然なことだ。3つの観点で自然である。ひとつめは、平面説もまた一般社会との齟齬をきたすために既存の陰謀論の文脈を使うのが伝達するのに最も簡便であること。ふたつめは、そもそも陰謀論とは(あくまで一般社会通念では)誰も確かめようがないような内容が語られること。みっつめは、これは大変に切ないが、実地に観察をすることはとても面倒であること。要はサボったのだ。切ない。僕はもう何度でも言いたいが、これは実際の、現実にある、手で触ることさえでき、目で直接に見る(太陽はちょっとアレだけど)ことができるものものに関する論なのだ!

しかしそれが空想であれ願望であれ(あるいは事実であれ)、他人の(あるいは自分の)想像力やイメージや思考の自由な(あるいは奔放な)運動や律動そのものを咎めたいわけではもちろん無い。ただフラットアースは実地の観察によって捉えるものであるからこそ、自然科学(あるいは自然哲学)として"他者と共有できる可能性"を獲得するのであって、その手続きを経ていないものはただの陰謀論だと思われても仕方がないとは思う。しかしそれでもその観察の内容を、今度は社会のなかに落としこんで語るときには、それは立派な陰謀論となってしまうこともまたそれはそれで正しいのではないかとも思える。だったらもういっそのこと「これは陰謀論だ」と言ってしまって良いような気もしてきはしまいか。僕は、あるいは僕ら(!)は、"陰謀論"というたった3文字の言葉が織り成して響かせるムードに、知らず知らず負けていたのかもしれないとも思えてこなくもない。あるいは言えばよいのかもしれないのだ。そう、これは陰謀論なんだと。そして、しかし、正しい陰謀論なんだ、と。
だがそんなのあいつらに届くだろうかね。ふふふ。

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