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フラットアーサー佐田介石さんのこと【平面説の路地裏から】

佐田介石は1818年、現在の熊本県八代郡にある真宗本願寺派の浄立寺に生まれた。そして同じく熊本の同宗派の正泉寺の佐田家の養子となる。その熊本では、藩校で儒学を学んでいたそうだ。そして18歳の時に京都に出て、今は世界遺産となっている天龍寺で、そのほかの諸学問も修めたらしい。この天龍寺で介石は、環中(かんちゅう)という臨済宗の僧に師事して天文学を学んだ。この環中という僧は、さらに円通(えんつう)という僧の弟子である。そしてこの円通は、なんでも15歳の時に『天経或問』という中国の天文学の書物を読み、そこで紹介されていた西洋の地球球体説と天動説に疑問を抱いたことから、仏教の宇宙観である「須弥山説」を擁護する活動を行なった先駆者的人物である。天龍寺で介石が師事した環中もまた、この活動の一旦を担っていた。ひとまず介石の天文観のルーツはここにあるとみて良いかもしれない。

しかし今で言うフラットアーサーとしては佐田介石こそ日本で最初の人物であろうと僕は思う。なぜか。それは彼が現代のフラットアース論においても最も重要な項目のひとつである「目の見え方」の説明を、1880年の著書『視実等象儀詳説』において行なっているからである。その本に載っている説明図を次に見せよう。

この図では、上空で太陽(日)と月が地面と平行に回っていて、それを各方角から見た時に「地下二出入スル如ク見ル図」として、"地面の下に出入りするように見える"理由が「目の見え方」にあることを、地面の上に描かれた4つのドーム状の図で示そうとしている。この説明は、佐田介石の没後すぐに書かれた伝記である『等象斎介石上人略伝』(1883年・仁藤巨寛)によれば、介石が「寝食を忘れて暗く閉ざした一室に閉じこもって"沈思黙考すること十有余年"」の末に辿り着いた結論だそうで、つまり師匠である環中や、そのまた師匠の円通の天文学の中にはこの見解はかつて無く、佐田介石自身のものであるということを示すからだ。おそらく円通や環中は、あくまでも仏教における須弥山説を擁護したに過ぎないが、介石はそこに初めて「観察」の要素を加えたのではないか。ここに現代のフラットアーサーと基準を共にするとしたい。

さらに同書に収められた以下のもう一枚の図を基に、彼の説明をもう少し聞いてみよう。

これは北極星の高度の違いを示したものであろう。一番右に「この円の前に13個の円があるとして見るように」とあり、左に「須弥4州の天と、北極の天とで、広い狭い・高い低いの違いはあるにもかかわらず、南の州の人の目に同じ天のように見え方が成立する図」とある。「13個の円」は数えると確かにそうなっているものの、なぜ13なのかはよくわからない。たまたま描画の中で13になっただけかもしれない。ともあれ「人目二」と書かれてあるので、やはり人間の目を考慮に入れているのである。これはもう誰がなんと言おうと完全に現代のフラットアーサーのそれである。

さて図の中の"人の目のドーム"のそばに「現象天」とある。これは「人の目に現象として映る天」のことであろうと思う。そしてこれに関連して介石は、「人間の目には、天の巨大な平面の東西南北が垂れ下がり、まるで半円であるかのように見える」と説明し、これを「垂弧の法則」と名付けている。また図の中の天の円のそばに「須弥実象天」とあるが、介石は「実象の天は極めて広大であるが、これも人の目には地に向けて縮んでゆくように見える」と説明し、これを「縮象の法則」と名付けている。あと最後に、一番右の"人の目のドーム"のところに「北極実象天」とあるがこれはおそらく、その"人の目のドーム"の直径の限界から垂直に延ばした線と、人の目と天の中心を結ぶ斜めの線が交わるところに北極星があると見えることを示したかったのではないかと思うが、なぜこれを「実象天」と表記したのかはよくわからない。実象天と呼べる天は実際の天のことであって、それはひとつではないかとは思える。よくわからない。あるいは補助的な図として用意されたものかもしれないし、太陽と月の天に対して星の天はまた違うのだということを示すかもしれない。

さて、介石はこれを説明するために「視実等象儀」という模型をも作っている。依頼を受けて実際に製作したのは、からくり人形で有名で、後の東芝の創業者の田中久重。

上の写真のものは1877年に制作されたもので、同年第1回の内国勧業博覧会という政府主導の博覧会に出品された。そしておそらくこれと並行して書かれたのではないかと思われるのが『視実等象儀記』という書物で、さらにその後、1880年に書かれたものが、先に紹介した『視実等象儀詳説』である。実は1855年に最初の視実等象儀が同じく田中久重によって制作されているが、これは1862年に京都で焼失したらしい。だがこの2代目の視実等象儀は現存していて、上野の国立科学博物館と熊本市立熊本博物館に所蔵展示されている。なぜ熊本の博物館なのか?というと、佐田介石は熊本の生まれだからである。

そして佐田介石は新潟で死んだ。1882年12月9日、64歳。現在の上越市の高田。病気による急死だった。そこは遊説のための旅先であった。介石は天文学だけではなく、国家の経済政策へも様々な批判をし、各種の外国製品を排斥して国産品を使用することの意義を説くための講演を、各地で数多く行っていたらしい。外国製品の使用がやがては国を滅ぼすと説き、たとえば石油ランプを批判した「ランプ亡国論」という主張が有名だそうだが、ほかにはコウモリ傘を批判したものもある。当時はすでに国産のコウモリ傘もあったが、工程をひとつひとつ見ていくと、原料の多くが結局は外国産であったらしい。このコウモリ傘批判のための講演会が1881年ごろに現在の長野県上田市で行われたそうだが、このときの会場はパンパンの満員で、しかも演説に感動した聴衆が、その帰り道にコウモリ傘を折って捨てていったという過激なほっこりエピソードも残っている。佐田介石は知識層からは大層バカにされたそうだが(わかる)、民衆からは「今釈迦様」などと呼ばれて親しまれたようでもあるらしい。天文学における著作ももちろん先に挙げたものに限らないし、経済政策に関しての建白書もしばしば提出していたようで、なかなかに熱血漢で活動的な人物だったということだ。

エピソードをもうひとつだけ紹介したい。1874年の12月、金星が太陽面を通過するというので、その観測に日本は最適であったらしく、外国から観測隊が来ることになった。そこで介石は、自身の発行していた『世益新聞』という発行物の付録に「外国一等天文師二疑問スルノ事」という見出しを付け「星学疑問」という文書を記し、左院へ宛てた建白書とし、彼ら観測隊にそれを問いかけることを求めた。そこに書かれている疑問は次の6つだ。

①地球回旋の力を疑う
②地球回旋の貌(すがた)を疑う
③実験をもって地動を疑う
④地影の食を疑う
⑤地球の形状を疑う
⑥地球回旋の路を疑う

この建白書がどのように扱われたのかはわからないが、おそらく相手にされなかったのではあろう。介石は同じく『世益新聞』の他の号にも「米利堅(メリケン)教師某(なにがし)二復スル(応答する?)天象地理ノ疑問」という文章を書いていて、これはアメリカ人のお雇い外国人に対して質問状を送ったところ、"失礼な態度ではあったが"返答があったので、それにさらに反論するという趣旨のものらしい。熱い男である。

では最後に、現在に残されているふたつの佐田介石の肖像をあげておく。

ひとつは没後すぐに書かれた伝記『等象斎介石上人略伝』に描かれているドローイングで、もうひとつは写真である。いつどこで撮られたのかはわからない。この写真はとても印象に残る。すっとぼけているようでもあり、目の前の相手を舐めきっているようでもあり、なんとかして物事を見通そうとしているようでもあり、どこにでもいる人のようでもあり、どこにもいない人のようでもある。ドローイングのほうを見ると、なんとなく眉毛の濃さが印象に残る顔の造作だったのではないかとも思える。確かに写真を見ても、眉毛がクリッとして映っていることに気づく。そしてやや斜視ぎみ。ドローイングの上部に書かれた文言は「国のため、法のためとて、身のかぎり、尽くして果てん、倒れ伏すまで」。

僕がこの人物への接近を試みる理由のひとつは、日本人にとって現代のフラットアース論はまず海外から伝わってきたものであると見るのが普通だが、それに通ずる知見をすでに1800年代後半に仏教の宇宙論をベースに、日本で独自に産み、また伝えようと試み、さらに遺していったという特異な人物だからである。これは英語圏における現代フラットアース論の開祖的存在と言えるサミュエル・ローボザムの初著作『Zetetic Astronomy』の1849年から見れば、介石の最初の視実等象儀の制作年である1855年はその6年後、あるいはその説明著作としての『視実等象儀記』の1877年なら18年後のことである(しかし彼がローボザムの本を読んだ形跡はおそらく無いはずだ)。もうひとつの理由は、彼の誕生日は1818年の5月12日と伝えられていて、なにをかくそう、この日付は、僕が「あーあー、地球は平らで宇宙なんか無いのか」と分かった日の日付と同じだからである。ひひひ。
ともあれ、今の僕らの手元にあるこのフラットアース論は、フーコーの振り子やらアインシュタインやら月面着陸やらビッグバンやら前澤『宇宙ほんとにあったよ』発言やらのゴリ押しにつぐゴリ押しで進められてはビッグマックのように不細工に積み上げられてきたハリボテの神話の巨人たちがそこらじゅうを闊歩し続けている世界のその陰で、ひっそりと風雪に耐え、ついにここに届けられ、そして差し出されている。時にはそれを思い出していたい。この社会の中においてはフラットアース論は、茫漠たる大洋を水平線から水平線へと止め処なく漂流し続ける鯨の死骸のように見えることもあるが、しかしそれはこの日本の地の上にも根差されて在ったのだと。それはこの海岸線の内側に在り続けていた。これは150年の時を越えた佐田介石からの贈り物である。

と、いうわけで、佐田介石さんについてはまた書こうと思うけれども、とりあえず僕からの最初の紹介としてはまずこのようなところで良いと思う。

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