1-1 犬の前

 これは、聞いた話。
親父の個室に、女が来たそうだ。
女はベッドのわきで、長いこと親父に話しかけていた。
あの貝みたいに無口な親父に向かって。

 「お父さん、一枚だけでいいので撮りましょう。ねっ」
「いやだ。撮らん」
出会って第一声がそれだ。女は苦笑いして、強引に犬を親父に抱かせた。
「ほら、ジョニーもいい顔してますし。ねえ、先生」
 女についていた講師も、たたみかける。うっとうしい笑顔で。
「佐山さん、この子普段こんなにじっとしてないんですよ。私たちも次いつ来れるか分からないし、今、一枚だけでも撮りましょう」
「ほらあ。ねっ」
たぶん、癖なんだろう。女がなれなれしく親父の腕に手を置いた。親父は、いつものへの字口で下を向きながら言った。
 「手ェ握ってくれ」
「えっ?」
そりゃあ、分からないだろう、意味なんて。親より歳の離れたジジイの手を、なんで授業で握らなきゃならないんだ。
ただ、手馴れた講師には分かったらしい。
「中野さん、握ってあげて」
いや、それを笑顔で言うのは酷だろうとおれは思った。だが女はそれで分かったらしい。
 笑って親父の手を握った。白くて小さな、あの手で。
そこですかさず講師がシャッターを切ったというわけだ。
「じゃ、撮りますよー。はい、チーズ!」

 ここまでが、聞いた話。

#小説 #創作

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