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リーダー修行記84(『リードとは信じること』…でもないんじゃない?)

「リーダー教」の「祈る」教義の教えを叩き込まれてすっかり教徒となった私ですが、今日はその概念を根こそぎひっくり返す話をします。

改めて説明すると、私がリーダーの極意を「リーダー教」と名付けたのは、初めてリーダーを習ったとき、最初の一歩目を「身体を一切使わずに気持ちでパートナーを後退させろ」と言われたことに端を発します(いろんな意味で怖かったし)。
その後「パートナーへの気持ち」がないと、何をやっても伝わらない(踊ることはできるけど、ふたりで踊っている意味がない)、リーダーたるものの責任を果たしたことにならない、というようなことを言われ続けました。女性の美しさを引き出せないのはリーダーに「気持ち」がないからで、技術に走るのは、どんなに技術力が高くてもヘボリーダーだと。

あまりにも言われ続けたので、私もすっかり洗脳されていたわけですが、若干の違和感は頭の片隅にありました。その教えを私が最初に疑ったのは、敬虔なるリーダー教徒メインコーチャー(男性)と同じ教祖に同じ教えを受けているはずのサブコーチャー(女性)の、こんな言葉です。

「あの教えは、なんでか知らないけど男性には響くみたいなんだよね。私は祈っても何も起きないと思うけどね」

実は私、サブコーチャーの言うこともわからんでもない、と思ってました。
なので、私の中には、男性の先生と女性の先生の「祈り」への執着の差はなんなのか、という疑問が常にありました。

そして、「身体を使うな気持ちでリードしろ」と言われたあの日から2年半。私はついにその答えを見つけました。

私、最近、ホールドや立ち方を見直して、自分の顔を今までより少し右側に向けるように意識したら「相手と吊り合って安定する」ということに気づきました。そしたら、なるほど自分がこう動いたら相手がこう動くんだねという頭の軌道がようやくわかりました。あれだけ「頭教」「頭教」と言っていましたが、頭では理解できていても、実践はできていなかったんです。面目ない。

そして、それをメインコーチャーレッスンで実践したら、先生に、

「えっめっちゃ踊りやすいんだけど。何これ?何した?」

と慄かれました。

私「パートナーの方を見るようにしたら、ふたりの引っ張り合いができるのがわかって、相手が意識できるようになりました」
先生「それは『気持ち』だね」
私「・・・・?」
先生「『気持ち』があるから、パートナーを見てるんじゃないの?」
私「逆だと思う。パートナーを見たら吊り合う、っていうのがわかっただけ」
先生「リードの伝わり方が全然違うよ。それって『気持ち』でしょ?」

なんだこの、いつになくかみ合わない会話は。

ホールドするときの顔の向きを変えたらふたりの吊り合いが作れて、そしたらパートナーに動いてもらうには自分がこう動けばいいんだなというのが体感的にわかるようになって、自然と相手に意識が向くようになったという、即物的な話よ?。

あれ?

もしかしてこれが、散々言われ続けた「気持ち」というやつですか?

待って。
待って待って待って待って!
自分がこう動けばいい、という正しい動き方がわかったら「こういうふうに動いてほしい」っていう「気持ち」は自動的にわくものじゃない?
「こっちに行ってーーー」とか「そこに咲いてーーー」とかいう「気持ち」は身体の動きに附随して勝手に生じるものじゃない?
「技術」と「気持ち」は全自動で連動するよね?
それが自然ってものじゃない???

待って待って待って待って!
男性には「気持ち」って自動的に芽生えないのものなの?
「技術」と「気持ち」は連動しないの?
よもやまさか、「気持ち」「気持ち」って意識しないと、パートナーへ「気持ち」を向けるということができないの?
だから「身体じゃなくて気持ち」とか言うの?
技術(身体)」と「気持ち(心)」は切り離されているの???

嘘でしょう!?

メインコーチャーが「技術に走ることを覚えると軌道修正が難しくなるからまず『気持ち』」と口酸っぱく言うのは、「技術」は「技術」でしかなく、「気持ち」は意識しないと生まれないもの、「身体の動き(技術)」と「気持ち」をつなぐ回路は意図して作らなければできないもの、という大前提があるのだということに、私は初めて気づきました。そして多分、その回路を作ることが、男性にとってとてつもない努力を必要とする、ということに。

だからか。
だから「気持ち」に萌えるのか。
本来ない回路を作る極めて困難な作業を乗り越えているから、「気持ちを込めたらパートナーに通じる」とういう魔法を使ってるような感覚になるのか。

………そんなわけないじゃん。

そんなわけないじゃん!

技術」と「気持ち」をつなぐ回路は、作らなくても私の中に元々あるよ。全然魔法じゃないよ!

前記事で、女性の先生たちがリーダーを教えるときに、
「『こちらへどうぞ~』っていう感じで動くといい」
とよく言う、という話を書きました。
男性の先生がこういう表現をするのは聞いたことがなくて不思議だなと思っていたのですが、理由がわかりました。うまくリードできたとき、「こちらへどうぞ~って思ってやった」と言うと、メインコーチャーがいちいち困惑する理由もわかりました。

「こちらにどうぞ~」はもれなく身体の動きに附随してる、ということが男性にはわからないんですね!?

身体がリードする方向に動く=こちらにどうぞ~という「気持ち」が働く。
つまり女性にとって、「技術」と「気持ち」はセット。身体と心はつながっていて、ひとつのシステムに組み込まれているんです。
サブコーチャーが「行ってほしい道を確実に通ってもらうように動くのがリーダーの役割」と、一見ドライなことを言うのも、「気持ち」とか「祈り」とかは、もともとその技術に標準装備されているからなんだと思います。全自動だから、あえてそこに注力する必要がないんです。
女性は、心と身体がつながる回路を生まれ持ってるんです。

たとえば、踊り出し。
リーダーを始めたとき、いったいどうすれば目の前にいるパートナーが後退してくれるのがわからない、と訴えたときのメインコーチャーの答えは、

「身体じゃなくて『気持ち』で伝える」

サブコーチャーの答えは、

「体重が乗ってる足を踏み込む」

でした。

これって、男性にとっては「身体の動き(技術)」と「気持ち」は別々のもの、女性にとっては自動的に連動するもの、という違いなんじゃないかと思います。

男性にとって「足を踏み込む」は「足を踏み込む」という行為以上でも以下でもないかもしれませんが、女性にとって、この場合の「足を踏み込む」には「後退して」という「気持ち」が含まれるのです。実際、私はこれを習ったとき、自然に「後退してね」という「気持ち」で足を踏み込んでました。誰に習ったわけでもありませんが。

リーダー教で言うところの「気持ち」や「祈り」というのは、人間が本能的に持っている非言語コミュニケーション能力を高次元でテクニカルに使うこと、というのが私の解釈で、それはものすごく修行しないとできないことだと今まで思っていたのですが、私の仮説が正しければ、女性にとってそれはさほど難しいことではないことなのかもしれません。
というより「高次元でテクニカルに使うこと」でさえないと思います。
非言語コミュニケーションは女性の行動システムに初めから組み込まれているので、努力して獲得するものではないし、修行する必要もないんです。

重要なのは、「こうすればリードできる」「相手が思い通りに動く」という実感を持つことです。それがわかって初めて「気持ち」が付いてきます。
仕組みとしては、脳が理解する→身体が正しく動く→気持ちが勝手に乗っかる、みたいな感じです。

私が、「身体を使わずに」「気持ち」を伝えろと言われたとき何もできなかったのは、何もないところに「気持ち」はわかないからだと思います。
サブコーチャーが「祈っても何も起きない」と言うのも同じ理屈だと思います。
先生としては、「技術」を先に覚えたら「気持ち」が置き去りになって冷たいリーダーになる、「回路」を作れなくなる、という親心だったのだと思いますが、先生、私は逆です。技術を覚えないと「気持ち」はわきません。回路は作らなくてもあるので大丈夫です。

あるとき、

「サブコーチャーに習ったんですけど、このステップってパートナーの進路をふさがなきゃいけないんですね」

と、自慢げにメインコーチャーに言ったら、めっちゃ嫌そうな表情で「もっとパートナーを思いやれ」的なことを言われたことがあります。
多分、男性にとって「進路をふさぐ」は、その行為以上の意味を持たないのだと思います。でも、女性の場合、「進路をふさぐ」という行為には「ここは通っちゃいけない道なの、こっちの道に行ってほしいの」という「気持ち」が附随してるんですよ。
その動きそのものに、パートナーをエスコートする「気持ち」が当然のようにセットされてるんです。「身体の動き(技術)」と「気持ち」は、片方だけではそもそも成立しないのです。

先生、修行歴2年半にして、私は大変なことに気づいてしまいました。

私の「気持ち」はいつも「身体の動き(技術)」に標準装備されています。
私は、男性リーダーたちが努力しないと手に入れられない「気持ち」という武器を生まれ持っています。
魔法の杖は必要じゃないし、「祈る」呪文もいりません。

だからこれからは、「気持ち」より先に「技術」を教えてください。
私、リーダー教を案外簡単に解脱できちゃうかもしれません。

(個人の見解です)


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