見出し画像

【裏歴史】記紀では語られない!?八咫烏の真の正体とは?

お元気様です!
歴史沼チャンネルのきーです。
今回は八咫烏の正体というテーマで迫っていこうと思います。

このチャンネルは知識の量や深さに関係なく、歴史を楽しむコンテンツを聞き流しスタイルで紹介しているのでよかったらチャンネル登録よろしくお願いします。

八咫烏といえば、熊野において神武天皇を案内した導きの神、勝利へ導く神様としてサッカー日本代表のエンブレムとして採用されるほど人気の神です。

前回の動画では、京都の賀茂神社を祀る鴨氏が八咫烏を祖としているという話をしました。
しかしそれでは、大きな謎と矛盾が残ったままになってしまっていたのです。

なので今回は、その謎を明らかにする考察を入れながら八咫烏の正体について迫っていこうと思います。

YouTube動画で見たい方はこちら!

鴨氏の謎


前回の動画では、鴨氏は『山城国風土記』に「もとは大和国の葛城にいて、のちに北上して山背国の賀茂に移った」という伝承があることを解説しました。

しかし、ここで一つ謎があります。
その謎とは、”鴨氏はなぜ葛城から山背へ移ったのか?”ということです。

拠点を移すということは、なんらか移さねばならないような大きな出来事が起こった?ということです。
この鴨氏が葛城から山城国へ移ったという謎を紐解いていくにつれて、鴨氏は八咫烏なんかではなかったのではないか?という真実が浮き彫りになりました。

八咫烏と神武東征



考察の本題に迫る前に、八咫烏について紹介しておきましょう。

八咫烏といえば、熊野の地で神武天皇を大和へ導いた神様です。

神武天皇は九州から東征をして大和を目指しますが、西から大和に入ろうとした一度目は大和の軍勢ナガスネヒコに敗れてしまいます。
そこで神武天皇は、「太陽神である天照大神の末裔である我らが、昇る太陽に向かって矢を向けるから勝てない」として東から攻めようと紀伊半島をぐるっと一周し熊野に上陸した際に現れ、道案内をしたのがこの八咫烏です。

八咫烏が誰の遣いなのかは諸説あり、高御産巣日の遣いだったり、天照大神の遣い、熊野大神の遣いとも言われ、共通なのは天津神の遣いだということです。

神武東征は作り話?


八咫烏が神武天皇を助けたという話は、神武東征神話として語られていますが、神武天皇は今でも研究者の中では実在を疑われている初代天皇です。

神武天皇も天皇家の歴史を古く見せるために作られた人物であり、神武東征も神話的な要素が強い作り話だといわれています。

しかし完全なるフィクションではなく、神武東征にはモデルとなるようなストーリーがあったのではないでしょうか?

記紀編纂者がモデルとなる事実を基に神武東征という神話を作り上げ、神武天皇を作り上げ、天皇家の歴史を古く見せようとしたと考える方が、神武東征は完全なるフィクションだと考えるより自然です。

そしてこのモデルとなったであろうストーリーに登場する人物が、神武東征の八咫烏として描かれる人物なのではないでしょうか?

モデルストーリーは出雲王家伝承に残されている


では、モデルとなったであろうストーリーとはなにか?
それは出雲王家伝承に残されています。

出雲王家伝承とは


出雲王家伝承では、紀元前7世紀ごろに出雲族による広域統一国家である出雲王国が成立したとされています。

この出雲王国は、2人の王をいただく二王家制だったといわれています。
主王が「大名持」という役職名で呼ばれ、副王が「少彦名」という役職名呼ばれ代々受け継がれていました。

そしてこの主王と副王は、東出雲王家である富家〔向家〕西出雲王家である郷戸(ごうど)家〔現・神門家〕とで交代で選出されていたとされています。

そんな出雲王国は、紀元前2世紀ごろに大和(奈良盆地)へ進出し、そこを支配地としていました。

出雲王国伝承には、徐福についての記載もあり、
中国から徐福率いる集団が複数回渡来し、徐福は丹波では彦火明(ひこほあかり)を名乗り、北九州では饒速日(にぎはやひ)と名乗った。
そして丹波の徐福の子孫が海部家となり、北九州の徐福の子孫が物部家となったとしています。
※徐福:秦の始皇帝の命で童男童女数千人を連れて,海中の三神山に不死の薬を捜しに出かけた人物

記紀神話で語られる神武東征神話は、出雲王家の伝承で語られる北九州の徐福の子孫である物部勢力がヤマトへ東征する話がモデルストーリーなのではないでしょうか?。

出雲王国伝承の物部家の東征


出雲王国伝承に残される物部勢力の東征エピソードはこうです。

北九州に三度目の渡来をした徐福と大勢の秦国の人民達は、筑紫を制圧し徐福は和名で饒速日(ニギハヤヒ)と名乗ります。九州ではモノノベ王国が君臨し、徐福より5~6代目の子孫・五瀬で大和への遷都を開始します。

四国南方沖から紀伊国に上陸し、紀ノ川を逆上って大和に入ろうとしますが、待ち受けるヤマト王国軍に敗れて五瀬が亡くなり一時撤退をします。疲弊したモノノベ勢は海沿いに熊野川から再度上陸し、熊野川の中洲(大斎原)に住み着きました。

いかがでしょうか?
この出雲王国伝承に語られる物部勢力の東征エピソードは、まさしく記紀で語られる神武東征のエピソードのモデルに相応しい内容ではないでしょうか?

1回はヤマト王国軍に敗れた物部勢力が、熊野にたどり着いたときに物部勢力を助けた人物こそが八咫烏の正体です。

物部勢力を助けた八咫烏とは誰か?


では、大和を侵略するモノノベ勢の元に現れた八咫烏はいったい誰なのでしょうか?

それは、和泉国陶邑(いずみのくにすえむら)にいた出雲王家・富家の分家とされるオオタタネコです。

オオタタネコとは?

まず最初に、通説で語られるオオタタネコを紹介しましょう。

オオタタネコとは、大物主の子供であり、三輪山にある大神神社を祀る大神氏の祖と言われる人物です。
第10代崇神天皇の頃、疫病が流行って、全人口全滅の危機に直面した崇神天皇の夢に大物主が現れて、「わが子孫オオタタネコを探し出し、三輪山で祀らせろ」とのお告げがあり、崇神天皇が探させ、三輪山でオオタタネコに大物主を祀らせた。その他の祭事も行い、祟りによる疫病は終息、天下は泰平となった。
というエピソードで有名な神様がオオタタネコです。

出雲王国伝承のオオタタネコ

出雲王国伝承に登場するオオタタネコは、出雲王家・富家に対抗心を燃やす富家の分家の人物として描かれます。

オオタタネコは現在ヤマトを支配する富家を含む出雲族を追い出し、自分がヤマトを支配したいと野望を燃やします。

そのような野望をもったオオタタネコは、熊野に滞在する物部勢力に味方をし、物部勢力のヤマト侵攻を助け、導いたのです。

八咫烏と呼ばれる由縁は、オオタタネコが富家の親戚故に登美の性を名乗ったのが「登美→トビ→鳶」を連想させ、「金色のトビの道案内」と物部勢力が呼んだためです。

物部勢力は秦国からの渡来民族のため、大陸の三本足の金烏・八咫烏の太陽信仰を持っていました。
これがオオタタネコの持つ富家の太陽信仰とも結び付き、物部勢力はオオタタネコを八咫烏と呼んで拝むようになったようです。

出雲王国伝承と鴨氏

物部勢力より先にヤマトを支配していた出雲族の王家:富家には、別の名前があります。

それが、鴨氏です。

『山城国風土記』で鴨氏は葛城から山城国へ移ったと記載されているのは、北九州より攻めてきた物部勢力にヤマト(葛城)を追われ、山城国へ逃げ延びたということだったのではいでしょうか?

この山城国へ逃げ延びた際の鴨氏の当主が、賀茂建角身命であり、現在も京都の下鴨神社に御祭神として祀られています。

物部勢力を導いた八咫烏ことオオタタネコも、元は富家の分家であり出雲族です。
なので、京都の鴨神社の元宮である事代主を祀る葛城の高鴨神社や鴨都波神社は自分の祖先を祀る神社として現在も残されています。

別格だった鴨氏と大神氏

鴨氏が元ヤマトを支配した王族であった富家となれば、古代日本において鴨氏が別格だったことが理解できます。

京都の鴨神社だけ、伊勢神宮と同じ斎宮制度があり、天皇の大神を祀る宮を意味する「皇大神宮」を名乗ることができました。

それに中央豪族の中で、天皇家に準ずる地位とされる君の姓を許されたのが出雲王家の登美家だった鴨氏とオオタタネコこと八咫烏の大神氏の2氏族だったということも腑に落ちるのではないでしょうか?

まとめ

いかがでしょうか?
八咫烏の正体とは、自らも出雲王家の分家でありながら物部勢力に裏切ったオオタタネコこと大神氏である。ということを紹介しました。

前回の鴨氏の動画も今回も八咫烏は、出雲族を裏切った人物として着地しました。
勝利へ導く導きの神として人気のある八咫烏が、裏切りの神であるというのは考え深いものがありますね。

なぜ鴨氏が八咫烏であるという説が出たのか?はまだ考察が必要ですし、今回は大考察回だったので、異論がたくさんあると思います。
温かいコメントをお待ちしております。

今回の参考文献も概要欄からチェックしてみてください。

今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!

鴨氏については、こちらの動画でも紹介していますので秦氏と鴨氏の関りを知りたい方は、こちらもご覧ください。

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりましたので、よろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。

【きーの歴史沼チャンネル】はこちら💁‍♀️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?