見出し画像

【別格の古代氏族】裏天皇家?八咫烏と鴨氏の正体

お元気様です!
歴史沼チャンネルのきーです。
今回は鴨氏の正体というテーマで迫っていこうと思います。

このチャンネルは知識の量や深さに関係なく、歴史を楽しむコンテンツを聞き流しスタイルで紹介しているのでよかったらチャンネル登録よろしくお願いします。

鴨氏といえば、京都にある賀茂神社を祀る豪族だと思っている人も多いのではないでしょうか?
しかし鴨氏は、神武東征の際に熊野で神武天皇を助けた八咫烏を祖先とし、裏天皇家とも囁かれるほどに古代豪族の中でも別格といわれる一族です。

なので今回は、日本神話の定説を覆す考察をしながら鴨氏の正体について迫っていこうと思います!

YouTube動画で見たい方はこちら!


賀茂大社とは?


まず最初に賀茂大社についてのお話から始めましょう。
賀茂大社とは、京都にある上賀茂神社と、下鴨神社の総称であり、山城国の一宮として現在も有名な神社です。

下鴨神社


下鴨神社とは、正式名を「賀茂御祖かものみおや神社」といいます。

創始の年代は定かではありませんが、崇神天皇の7年に神社の瑞垣(みずがき)の修造がおこなわれたという記録があるので3世紀ごろというのが有力です。

下鴨神社に祀られている神様は、賀茂建角身命(かもたけつぬみ)と玉依姫命(たまよりひめ)です。

賀茂建角身命(かもたけつぬみ)は、古代の京都を拓いた神として祀られ、賀茂建角身命(かもたけつぬみ)の娘が玉依姫命(たまよりひめ)となっています。

鴨氏はこの賀茂建角身命(かもたけつぬみ)を始祖とし、この賀茂建角身命(かもたけつぬみ)が八咫烏だといわれています。

上賀茂神社


上賀茂神社は、正式名を「賀茂別雷(かもわけいかずち)神社」といいます。

創建ははっきりしていて、第40代・天武天皇6年(677年)とされています。

主祭神には賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)が祀られています。

賀茂別雷神は、下鴨神社の祭神である玉依姫命(たまよりひめ)の息子にあたります。

『山城国風土記』には、興味深い伝承があります。
その伝承とは、
賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)の娘の玉依日売(タマヨリヒメ)が「石川の瀬見の小川」で川遊びをしていたところに丹塗矢(ニヌリヤ)が流れてきて、これを家に持ち帰ったところ妊娠して男子を出産した。娘の父である賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)が男たちをあつめて宴を開き、その男の子に父親に酒を飲ませるよう促すと天に向いて祭ろうとし、屋根を割って天へ昇っていった。これが賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト)であり上賀茂神社の御祭神である。
という伝承です。

別格だった賀茂大社

この2つの賀茂大社が古代において伊勢神宮と変わらない別格の地位にいたことをご存じでしょうか?

賀茂大社は平安遷都以降は桓武天皇の度重なる参拝から皇室との繋がりが強くなり、「賀茂皇大神宮(カモノスメオオカミノミヤ)」、さらには「賀茂御祖皇大神宮(カモノミオヤスメオオカミノミヤ)」と称せられました。

それだけではなく、賀茂大社の神様は「賀茂皇大神(カモノスメオオカミ)」と称せられ、807年には正一位を賜り、国内随一の地位が与えられています。

「皇大神宮」とは、現在の伊勢神宮のことを意味し、「皇(スメラギ)」は天皇を意味するため、「皇大神宮」は天皇の大神を祀る宮を意味します。

そして伊勢神宮と賀茂大社の二社だけ、神社に未婚の皇女を奉仕させる斎王制度がおかれていました。

賀茂大社に使われていた皇大神宮の文字は、現在では明治政府の強い要請によって取り払われましたが、賀茂大社が天皇家や古代日本でどれだけ別格だったのかがわかります。

賀茂大社を祀る一族


そんな別格扱いの神社を祀る鴨氏とは大きく分けて2つに分かれます。

1つ目は奈良の葛城に本拠地をもつ鴨君と、京都の山背に本拠地をもつ鴨県主です。

しかし歴史研究者の水谷千秋氏によれば、葛城の鴨君と山背の鴨県主は『山城国風土記』に「もとは大和国の葛城にいて、のちに北上して山背国の賀茂に移った」という伝承があることから、両者はもともとは同一の氏族だった可能性が高いとしています。

奈良の葛城の鴨君が、山背の鴨県主になったということなので、鴨氏のルーツを知るために葛城の鴨氏に迫っていきましょう。

葛城にある全国の鴨神社の元宮


京都の賀茂大社の元宮であり、全国の鴨神社の元宮といわれる神社が葛城地域にあります。

その神社とは「鴨都波(かもつば)神社」と「高鴨(たかかも)神社」です。

鴨都波神社

鴨都波神社とは、事代主と下照姫命を主祭神とする延喜式内社の神社です。

葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめたことから、高鴨神社を上鴨社というのに対し、鴨都波神社は下鴨社と呼ぶようになり、社伝によれば、事代主神は元来「鴨氏」一族が信仰していた神であり、鴨都波神社が事代主神の信仰の本源であるとしています。

高鴨神社


高鴨神社は、阿遅志貴高日子根命(あじしきたかひこね)、事代主命、阿治須岐速雄命(あじすきはやお)、下照姫(したてるひめ)命、天稚彦(あめのわかひこ)命を御祭神としています。

事代主も阿遅志貴高日子根命も下照姫も出雲神の代表である大国主命の子供にあたります。

社伝によれば、阿遅志貴高日子根命は「迦毛之大御神かものおおみかみ」と呼ばれ、鴨一族の守護神であり、高鴨神社は全国の鴨神社の総本社であるとしています。

出雲神と賀茂大社


鴨氏のルーツである葛城にある鴨神社の総本宮に祀られているのが、事代主と阿遅志貴高日子根命となるとこの2柱の神はどちらも出雲系の神です。

天皇家の祖神を祀る伊勢神宮と同格であった賀茂大社に、出雲系の神が祀られているというのは大きな謎であり、深い秘密が隠されているのではないでしょうか?

では、出雲系の神である事代主と阿遅志貴高日子根命の2柱の神について少しお話していきましょう

事代主とアジシキタカヒコネ


事代主も阿遅志貴高日子根命も、日本神話では大国主命の息子として登場します。

アジシキタカヒコネは大国主と宗像三女神であるタキリビメとの間の子供であり、同じ父母から鴨都波神社の祭神でもある下照姫も生まれています。

日本神話では、
出雲に遣わされながら高天原に反逆を企てたアメノワカヒコの葬儀にあたって『阿遅志貴高日子根命はアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。阿遅志貴高日子根命は穢(けがら)わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。』というエピソードで登場したり、

『出雲国風土記』では

『遅志貴高日子根命は大人になっても言葉を話すことができず泣き叫んでいるばかりだったので、大国主が阿遅志貴高日子根命を船に乗せて池に放したところ、そこに白鳥が飛んできて、このとき阿遅志貴高日子根命が声をあげて叫んだことから、言葉をしゃべれるようになった』
との伝承も残っており、遅志貴高日子根命はあまり良い印象で書かれてはいません。

阿遅志貴高日子根命より事代主の方が有名かもしれません。

事代主のエピソードとして有名なのは、”出雲の国譲り”でしょう。

国譲り神話とは、大国主が治めていた豊葦原瑞穂の国を譲るよう天照大神の使者である、建御雷神らが大国主に迫ると大国主は「息子の事代主が返事をする」と答えました。
そこで建御雷神が事代主に国譲りを迫ると事代主は「恐れ多いことです。この国は天照大御神の御子に奉献なさってください」と言い、あっさりと国譲りに承諾し、事代主は天の逆手を打ち、踏み傾けた船を青柴垣に変化させ、その中に身をお隠しになったという話です。

事代主があっさりと国を譲ったこと、阿遅志貴高日子根命が出雲で良く描かれていないことが、鴨氏が八咫烏を祖とし天皇家とほぼ同格の地位にいたことの謎を解く手がかりになるのではないでしょうか。

国譲り神話の功績が八咫烏神話へ


ここからは、仮説であり考察ですが、
出雲系だった事代主や阿遅志貴高日子根命を祖とする鴨氏が出雲を裏切り、天皇家側である天照大神側についたことが神武東征の八咫烏神話として語られているのではないでしょうか?

天皇家側である天照大神が、豊葦原瑞穂の国を平定できたのは事代主のおかげといっても過言ではありません。

大国主が国譲りを承諾した際に「事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちも事代主に従って天津神に背かないだろう」と言っています。

このセリフは、出雲において事代主の勢力はそこまで強大であり、その強大な事代主が出雲を裏切り天照大神側・天津神についたことは天照大神を祖とする天皇家にとってこれ以上ない勝利の決定打だったのではないでしょうか?

阿遅志貴高日子根命も天津神であるアメノワカヒコと間違われたエピソードがあり、このエピソードは阿遅志貴高日子根命が出雲を裏切り天照大神側につくように事代主に工作した神なのかもしれません。
事実、アメノワカヒコと阿遅志貴高日子根命を同一神としされていることもあります。

鴨氏の祖が事代主と阿遅志貴高日子根命であり、
出雲を裏切り天津神が豊葦原瑞穂の国を治めるキッカケを作ったのが、事代主と阿遅志貴高日子根命であり、
その功績が、伊勢神宮とほぼ同じの待遇を受けた理由と考えることができるのではないでしょうか?

そしてその功績が、神武東征の八咫烏として神話化されたのではないでしょうか?

出雲の国譲り神話と神武東征は同じ出来事を神話として語っているともいわれることもありますし、神武天皇は10代崇神天皇のエピソードのことだとも言われています。

もしこのお話が10代崇神天皇の頃の話となると、下鴨神社の創建時期ともぴったり重なってきます。

この『鴨氏が出雲を裏切り八咫烏になった』という話は、仮説であり考察ですのでいろいろな温かなコメントをお待ちしております。

まとめ

今回は、鴨氏の正体に迫りながら日本神話の定説を覆す考察をしていきました。

明治政府に禁止にされるまで、賀茂大社が伊勢神宮と同等の扱いを受けていたことは事実ですし、鴨氏が祀っている神様を紐解いていくと出雲の神である事代主と阿遅志貴高日子根命にいきつきます。

全国の賀茂神社の総本宮である高鴨神社の神紋は上半分が天皇家の菊紋で下半分は雲に覆われています。


出典:高鴨神社

八咫烏の伝承については、大神神社を祀る大神氏が八咫烏ではないか?という説もあり断定できないところもありますが、大神氏も鴨氏と同様に出雲系を祖とする豪族ですし、中央豪族の中で天皇家に準ずる地位にいたとされる君の姓を許されているのは鴨氏と大神氏だけです。

この2つの豪族に神武東征の立役者である八咫烏伝承があるということは、出雲系の天照大神側への寝返りはあったのかもしれません。

このことについてはまだまだ仮説段階であり、考察にすぎませんが、今回のお話の参考文献は水谷千秋氏の著作『日本の古代豪族100』とその他の参考資料は概要欄にリンクを貼っていますので興味のある方はそちらもチェックしてみてください。

<参考資料>


今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!

鴨氏については、こちらの動画でも紹介していますので秦氏と鴨氏の関りを知りたい方は、こちらもご覧ください。

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりましたので、よろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。

【きーの歴史沼チャンネル】はこちら💁‍♀️

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?