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【天照大神は男神だった?】天照大神がなぜ女神になったのか?

お元気様です!
歴史沼チャンネルのきーです。
今回は天照大神がなぜ女神になったのか?というテーマで迫っていこうと思います。

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天照大神といえば、日本の総氏神として伊勢の神宮に祀られている皇祖神です。
そんな天照大神をイメージするときにみなさんは、美しい女神の姿を思い浮かべるのではないでしょうか?
しかしみなさんが思い浮かべる天照大神像は、真実ではなく誰かに作られ、私たちの認識に刷り込まれているものかもしれないのです。

なので今回は、天照大神がなぜ女神になったのか?について軽い考察を入れながら迫っていきましょう!

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天照大神は男神だった?


天照大神といえば、神話に詳しくない人でも1度は耳にしたことがある日本を代表する神様です。

伊勢の神宮に祀られる皇祖神である天照大神は多くの人が、美しい女神であると思っているのではないでしょうか?

しかし天照大神は女神ではなく、男神であった可能性があるのです。

陰陽二元論での天照大神


天照大神男神説の根拠の一つとなっているのが、記紀に語られる陰陽二元論です。

古代中国に起源を発する思想で、この世界の森羅万象を、男性的なエネルギーである陽と、女性的なエネルギーである陰の2つに分類するというもので、この考え方が日本書紀の国産み神話でも採用されています。

イザナギノミコトを陽神、男神(をかみ)とし、イザナミミコトを陰神(めかみ)女神と呼び、男神は陽で、女神は陰となされています。

太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったと考えられる説です。

この組み合わせは、ギリシャ神話でも同じで、太陽神のアポロと月神のアルテミスは兄妹神の組合せとしても採用されています。

天照大神の別名:大日孁貴


そして日本書紀には、天照大神になる前の名前として天照大神にことを「オオヒルメノムチ」と呼んでいます。

オオヒルメノムチとは、”大日孁貴”や”大日孁尊”と書き、”貴”や”尊”は男神につけられる文字です。

オオヒルメを分解すると、太陽神を祀る巫女を意味し、男神であった太陽神を祀る集団はその巫女神である「ひるめの神」も一緒に祀っており、その後より大きなご利益を得たいと考え男神である太陽神と巫女神が合体して強力な太陽神が誕生した。という説があり、この時点ではオオヒルメノムチは男性神になります。

饒速日と同一神説もある天照大神


天照大神男神説の中でも、興味深いのは饒速日との関係です。

饒速日といえば、神武東征の際にヤマトを抑えていた王で、神武天皇に服従しない長髄彦を殺害し神武天皇に下ったという神様です。

この饒速日の名前が、”天照国照彦天火明櫛玉饒速日命”といい、太陽神という側面を持つことから、饒速日と天照大神を同一神として考える説もあります。

饒速日は男神ですので、饒速日と天照大神が同一神となると天照大神は男神だったことになります。

天照大神がいる伊勢の神宮に天皇家の未婚の女性が奉仕する斎王制も、天照大神が男神だから未婚の皇女が選ばれるというのも理解できる話でもあります。

伊勢神宮の神籬 (ひもろぎ)として神聖視されている、心御柱と呼ばれる柱も、男神のシンボル(リンガ:男性器)ではないかとも疑われています。


http://kyoto-k.sakura.ne.jp/gion108.html

祇園祭の山車に飾られる天照大神の人形のアゴに、ふさふさのヒゲが生えていたり、高野山の曼荼羅の天照大神もおじいさんの姿で描かれていたりと、天照大神は男神だったかもしれない…という側面がこの女神にはあるのです。

天照大神を女神にした人物


では、なぜ私たちがイメージする天照大神は女神なのでしょうか?

それは天照大神を女神とみんなに強烈に印象付けた人物がいるからです。

その人物とは、第41代天皇である持統天皇です。

持統天皇とは?


持統天皇とは、7世紀から8世紀の飛鳥時代に即位した女性の天皇です。

壬申の乱に勝利し天皇になった天武天皇の后であり、文武天皇の祖母にあたる人物です。

日本神話の原本ともなってる『記紀』は、この持統天皇の治世の時代に編纂され、『記紀』は時の権力者である持統天皇や藤原不比等がなんらかの影響を及ぼしているのではないか?とも言われています。

これは仮説であり、考察ですが、我々がいま天照大神は女神だと強烈に印象付けられているのは、この女帝である持統天皇が自分自身を皇祖神天照大神と擬していき、『記紀』の編纂をさせたからではないでしょうか?

なぜ持統天皇は天照大神になろうとしたのか?


なぜ持統天皇は天照大神になろうとしたのか?
、、、それは、自分の直系の子孫を天皇にしたかったからではないでしょうか?

持統天皇が自分の直系を天皇にしたかった理由を理解するためには、その当時の皇位継承問題を理解しなければなりません。

持統天皇と皇位継承問題

持統天皇は女性ですが、自身の天皇即位については問題はありません。

父は、乙巳の変で活躍した天智天皇ですし、夫は壬申の乱で皇位についた天武天皇です。

天武天皇の皇后は、持統天皇でしたが、この当時皇后の長男が皇位を継承すると決まっていたわけではありませんでした。
それに天武天皇は、皇后である持統以外の女性にも皇位継承権を持つ皇子である大津皇子を生ませていました。

自分と天武天皇との間にできた草壁皇子を皇位につける!これは、持統天皇の最重要課題であったと思われます。

当時は次期天皇をあらかじめ決めておく、皇太子制度もない時代です。
そんななか、天武天皇は686年に没してしまいます。

天武天皇が没した翌月、謀反の疑いで大津皇子が死に追いやられます。
これは天武天皇の死後、称制して権力を行使することができた持統天皇が主導して大津皇子を死に追いやったのだといわれています。
※称制:君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること

自分の息子である草壁皇子の皇位継承ライバルとなる大津皇子を死に追いやり、いよいよ草壁皇子が即位できる段階になったにもかかわらず、草壁皇子も早世してしまいます。

草壁皇子の死を受けても、自分の直系を皇位につける野望は消えることはなかった持統天皇が次に白羽の矢を立てたのが、のちに文武天皇となる草壁皇子の子である軽皇子です。

しかしこの当時、文武天皇の年齢は10歳未満。
この時代の皇位継承ルールとして、30歳未満の天皇即位は時期早々だと考えられていました。

そこで持統天皇は、自ら即位し、自分を皇祖神である天照大神に擬することで自分の孫である文武天皇へ皇位を譲り、自分の直系の子孫を皇位につける野望の実現にまい進することになります。

伊勢の神宮と持統天皇


持統天皇は、皇祖神を祀る伊勢の神宮に1番大きくかかわった天皇でもあります。

伊勢の神宮には、式年遷宮と呼ばれる20年に1度御社殿や調度品等すべてのものを新しく造りかえるお祭りがありますが、伊勢の神宮の初の遷宮はいつ行われたかご存じでしょうか?

それは690年、持統天皇即位の年です。
20年に1度の式年遷宮ですが、第1回目に制約はありません。
持統天皇は自身の即位と式年遷宮の年を同じに設定したのです。

神になる持統天皇

第一回式年遷宮に先立って行われた持統天皇の即位式にあたって、日本書紀には興味深い記述があります。

それは『神璽(かみのしるし)の剣、鏡を皇后に奉上る(たてまつる)。』
”かみのしるし”=神璽とは、その所有者が神であることを証明するものであり、歴代天皇の即位に際して鏡や剣といった王位を象徴するレガリアとしての璽(みしるし)を献上する慣習はありました。

しかし王権を保証するだけのレガリアではなく、神であることを証する神璽が献上されたのは持統天皇が初めてでした。

まさに持統天皇は正真正銘の神であるということを証明されたのです。

強行した伊勢行幸

自らを神として証明させた持統天皇が次に何をしたか…。
それは、伊勢行幸です。

天皇が自分たちの祖神を祀る伊勢の神宮に行くことが、なぜそこまで注目すべきことなのか…理解できない方も多いかもしれません。

しかし明治以前、天皇自身が伊勢の神宮を訪れることは、持統以外にはありませんでした。
伊勢の神宮に天皇自ら足を踏み入れることはタブーとされていたのです。

『日本書紀』には、大三輪朝臣高市麻呂という壬申の乱で多大な戦功をあげた天武天皇時代からの重臣が、持統天皇の伊勢行幸にたいし、諫言したばかりではなく中納言の職を捨ててまでも強硬に反対したと記載されています。

天皇自身の伊勢行幸はそこまでのタブーであり、重臣の反対を押し切ってまでも持統天皇が伊勢行幸を強行した目的とは…
それは、自分が天照大神として振る舞うことを伊勢の神宮に報告し、あわせてその許しを得るためだったのではないでしょうか?

”天照大神=持統天皇”と斎王制

持統天皇が天照大神として振る舞っていたことを示す、さらなる根拠が斎王派遣の停止と再開です。

斎王とは、皇室の未婚の女性で伊勢において祭神である天照大神につかえる巫女のことをいいます。

この斎王派遣は、天武天皇時代に復活したもののある期間、中止されています。
その期間とは、686年~698年の12年間。

686年は天武天皇が崩御し、持統天皇が大津皇子を死に追いやった年。
698年は持統天皇の孫である文武天皇が即位して、持統天皇が太上天皇となった翌年です。

つまり持統が天皇である間、斎王が置かれることはなかったのです。

それはなぜか?
それは、持統天皇自身が天照大神であり、天照大神をまつる神宮は伊勢にあっても、生身の天照大神は持統天皇がいる大和(奈良)にいる。
それなのに、天照大神につかえる斎王が伊勢にいては<持統=天照大神>というアイデンティティが揺らいでしまう

天照大神である持統天皇は奈良の大和にいるのだから、伊勢に斎王はいらない!だから持統天皇が在位していた期間斎王制度は停止されたのではないでしょうか?

天孫降臨神話と持統天皇


女帝である持統天皇がなぜここまで、天照大神になろうとしたのか?
それは、自分の直系の孫である軽皇子こと文武天皇へ皇位を継承させるためです。

この野望を実現させるために、最大の演出になったのは日本神話の中でも有名エピソードの一つ天孫降臨でしょう。

地上が平定されたとの報告を受けた高天原の天照大神は、自らの息子を地上におろそうとしますが、孫であるニニギが生まれたので、子供ではなく生まれたばかりのニニギを地上に降ろすのです。

これはまさに、孫を皇位につける持統の姿そのものではないでしょうか?

天孫降臨神話を利用し、自分が天照大神になることで孫である文武天皇へ皇位を継承させることを正当化させる。これが持統天皇の最大の夢実現だったのではないでしょうか?

まとめ

いかがでしょうか。
今回は、天照大神はなぜ女神になったのか?というテーマでお話していきました。

天照大神が男神だったという説は異論の方が多いでしょう。
しかし女帝である持統天皇が、天照大神に自らを擬していっったことは事実です。

そのことは持統天皇の時代に編纂された『日本書紀』で、持統天皇の諡が、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)であることが雄弁に語っています。

天照大神が女神で、女性である持統天皇がそれを利用したのか?それとも、持統天皇が自分の野望のために天照大神を女神にしていったのか?はわかりません。

しかし今の現代の私たちが、天照大神は女神であるというイメージを持っているのは持統天皇の野望と無関係とはいえないのではないでしょうか?

今回の動画の参考文献は、武澤 秀一(たけざわ しゅういち)氏の『伊勢神宮と天皇の謎』です。
古代から現代までの伊勢神宮の知られざる歴史について学べる一冊になってますので、興味のある方は概要欄のリンクからチェックしてみてください。

その他の参考文献はこちらです。

今回の動画につかった台本も公開しています。
文字で今回の内容を読みたい!という方は、概要欄のリンクからチェックしてみてください!

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
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ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。

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