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【矛盾だらけ】阿波邪馬台国説論争では語られない...卑弥呼の謎とは?

お元気様です!歴史沼チャンネルのきーです。

邪馬台国阿波説の最大の矛盾
卑弥呼と日本神話との関係とは?
邪馬台国阿波説卑弥呼の謎について大考察していきます。

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邪馬台国論争の新説


邪馬台国がどこにあったのか?が今での論争になっていることは、歴史に詳しくない方でも1度は耳にしたことが多いのではないでしょうか?

邪馬台国についての記載がある『魏志倭人伝』には、朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国への道程の記載はあるものの、その記載通りに行ったとしても日本列島のどこにもたどり着かないということで、大きく分けて畿内説九州説が昔から論じられてきました。

しかし今『魏志倭人伝』に記されている内容を書き間違えたと解釈したり、読み方の解釈を変更しなくても邪馬台国の場所を特定できる説として”邪馬台国阿波説”が注目され始めてきました。

邪馬台国阿波説の邪馬台国までの道のり


まず最初に邪馬台国阿波説について紹介しましょう。

邪馬台国阿波説の大きな特徴のひとつに、『魏志倭人伝』を読み替えなくても原文通りに進むと阿波にたどり着くということです。

まず魏志倭人伝には、”帯方国より女王国までを総計とすると一万二千余里となる”と記されています。
単純に帯方郡から真っ直ぐ12000里の場所を比定すると、日本列島にあたる部分は、徳島県(阿波)になります。

これだけの記載だけで考えると、邪馬台国九州説、畿内説でも辻褄が合うように思われます。
しかし、魏志倭人伝の記載の道程を考えると畿内説も九州説も読み替えが発生します。
(※阿波説でも道のり解釈については意見が割れているのでそのうちの1説を紹介します。)

まず他の説同様に、帯方郡から狗邪韓国、対馬国、一支国までは韓国→長崎県対馬、壱岐までは同様ですが、次の本土に最初に上陸する地として記されている末蘆国の比定地から異なっています。

一般的に末蘆国は、肥前国松浦郡(現在の佐賀県唐津市付近)を比定しています。

しかし狗邪韓国、対馬国、一支国おのおの1000里の距離にあり、一支国から末蘆国も1000里と記載されています。

しかし通説の肥前国松浦郡だと、一支国から500里くらいにしか満たないのです。
なので『魏志倭人伝』を原文通りに一支国から1000里の末蘆国は現在の福岡県宗像市と比定します。

そして次の伊都国は、通説では福岡県糸島市に比定されています。
『魏志倭人伝』には”末蘆国から東南陸行すること500里、伊都国に至る”となっています。
通説通り、末蘆国を佐賀県唐津市と比定して東南に行っても福岡県糸島市にはつきません。
末蘆国に比定されている佐賀県唐津市から、伊都国に比定されている福岡県糸島市に行くためには東南ではなく東北に行く必要があるのです。

『魏志倭人伝』の原文通り、一支国から1000里の末蘆国を現在の福岡県宗像市とし、そこから”東南陸行すること500里”にある伊都国は福岡県行橋市だと思われます。

次の記載は”東南、奴国に至る100里”
通説では、伊都国は福岡県糸島市なのでそこから100里で福岡市を比定しています。

しかし阿波説では、伊都国は福岡県行橋市なのでそこから”東南に100里”奴国は豊前国(大分県)の内陸部と考えます。

その次の不弥国は、”東行、不彌国に至る。100里”と記載があるものの畿内説、九州説の中でも場所の比定がはっきりされていません。

しかし阿波説では、魏志倭人伝の記載通りに読み進めるため、奴国と比定した豊前国(大分県)の内陸部から東に100里なので豊前国の海岸部、大分県中津市周辺を不弥国に比定することができます。

ここから問題の距離の記載がなくなり、日数だけの記載になるため比定が難しくなります。
”南、投馬国に至る。水行二十日”
”南、邪馬台国に至る。女王の都。水行十日、陸行一月。 ”

日数の記載のみになる投馬国と邪馬台国は船で移動したから、距離の比定が難しかったのだと思われます。

投馬国については、邪馬台国への道のりにあったクニというより、当時3世紀に日本列島にあった記載するに値する大きなクニだったと考えるのが自然です。

役馬国の記載については、私も何回か対談させていただいたANYAチャンネルさんの動画に詳しいのでそちらを参考にされてください。

そして邪馬台国については、不弥国から”南に水行十日、陸行一月”です。

なので豊前国(大分県)の海岸部から船に乗り、現在の愛媛県西岸部に辿りつき、そこから陸路一月をかけて徳島県にたどり着き、ここが魏志倭人伝に記載される「女王が都するところ」ではないでしょうか?

この道程だと、なぜ瀬戸内海を通らなかったのか?という疑問が生まれます。

この疑問を阿波説では、古事記の国生み神話で中国地方についての記載がないことから、邪馬台国とは違う文化圏で危険が伴ったからであると説明しています。

私個人の考察として、この考えには疑問が残るのですがその理由については動画の後半で理由を説明します。

どちらにしても、魏志倭人伝の記載を読み替えたり、新たな解釈を加えなくても邪馬台国に行きつくのが邪馬台国阿波説の特徴です。

邪馬台国は広域連合国家だった


邪馬台国阿波説を否定される説明として、【邪馬台国は7万戸の人口】がいた、という記載が魏志倭人伝にあることです。

7万戸の人口とは、約30万人になります。
当時の中国魏の首都である洛陽は20万人でしたから、邪馬台国はそれをも上回る大都市ということになります。

中国のように平地が広がる場所で20万人は妥当ですが、平地の少ない日本の国土、それも阿波で30万人の人が暮らすというのは無理ではないのか?という指摘です。

しかしこれを解決するのが、邪馬台国は広域連合国家と解釈することです。

邪馬台国は一つの国ではなく、いろんな国の集合体であり、邪馬台国を構成する一つの国に女王である卑弥呼がいた。と解釈するのは無理な話ではありません。

魏志倭人伝の記載も、邪馬台国へと向かう道程が、途中で推計値になったり、距離ではなく「日数」であらわされるようになります。

これは邪馬台国が明確な国境が示せない性質の国である、連合国だったからではないかと解釈することができます。

水銀丹を採取していた阿波


邪馬台国阿波説の最大の根拠になるのが、魏志倭人伝の【邪馬台国からは水銀丹(朱)が出る】という記載です。

【水銀丹】とは、鳥居や寺院の装飾に使われていた朱の顔料であり古代の埋葬や信仰に欠かせないアイテムです。

弥生時代に水銀朱を採掘していたとされる場所は、阿波徳島しかないのです。

今でも徳島県阿南市に残る「若杉山遺跡」「加茂宮ノ前遺跡」は1世紀初頭~3世紀後半にかけての遺跡で、水銀朱の精製・生産・祭祀を行った日本における水銀朱祭祀の先進地であったことを物語る遺跡として研究が進められています。

卑弥呼の墓が阿波にある


そして邪馬台国阿波説の根拠として強く言われているのが、徳島県阿波には卑弥呼の墓といわれる神社が残されていることです。

邪馬台国畿内説では、纏向遺跡にある箸墓古墳が卑弥呼の墓としていますが、墳墓の大きさなど記載と合わないことがたくさんあるのが現状です。

卑弥呼の墓の条件を具体的にあげるとこの3つがあげられます。

  1. 墳墓の大きさが100歩あまり(直径140~150m)

  2. 墳墓周辺から中国(魏)製の三角縁神獣鏡が出土する

  3. 墳墓周辺や卑弥呼の居住地域に金印(親魏倭王)があること

この3つの条件を満たしているのが、徳島市にある天石門別八倉比売神社(アマノイワトワケヤグラジンジャ)です。

この神社の背後にある、杉尾山をご神体として祀っているとても不思議な神社です

考古学によればこの古墳の築造は4世紀で卑弥呼の時代とは合わないのですが、

この神社について書かれた『御本記』によれば、もともとこの神社は背後にある気延山(きのべやま)の「東の峰」にあったのを593年に現在地に改葬したことが記されています。

そして『御本記』によれば、「東の峰」にあった墳墓について「神陵の径108歩」と記されているそうです

この古墳は神陵ということで発掘はされていませんが、近くの宮谷古墳からは3枚の三角縁神獣鏡が出土し、青銅の質がよいことから中国製であるとされています。

発掘が出来ていないため金印は発見されていませんが、『御本記』に墓に金印を納めたという記載まであるそうです。

そしてこの神社の最大の特徴が、邪馬台国阿波説の最大の特徴だといえます。

天石門別八倉比売神社の特徴は、御祭神が大日孁命(オオヒルメノミコト)とされており、この大日孁命とは、天照大神の別名です。

なので邪馬台国阿波説は、天照大神は卑弥呼であると考えられています。

卑弥呼=天照大神の矛盾ではないか?


今まで邪馬台国阿波説について概要を解説してきました。

魏志倭人伝の記載や阿波に残る遺跡から考えても、阿波は九州説や畿内説に負けず劣らずの邪馬台国候補地でしょう。

しかし今まで邪馬台国阿波説について解説した中で、私個人的には大きな矛盾を一つ感じています。

それは邪馬台国阿波説では、卑弥呼を天照大神と同一視している点です。

天照大神といえば、皇祖神です。
そして言わずもがな、卑弥呼は邪馬台国の女王です。

卑弥呼を天照大神だと考えるならば、邪馬台国がのちのヤマト政権になった。ということです。

この卑弥呼=天照大神で、邪馬台国がヤマト政権につながったという論が私が感じる大きな矛盾なのです。

記紀には邪馬台国の記載がない


これはよく言われていることですが、『日本書紀』や『古事記』いわゆる『記紀』には邪馬台国が登場しません

邪馬台国が登場しないのであれば当然、卑弥呼も記紀には登場しません。

記紀の編纂者は、『魏志倭人伝』の存在も知ってましたし、『魏志倭人伝』を読んでいたと思われます。

なのでもちろん3世紀の日本に、邪馬台国が存在し卑弥呼と記載される女王がいたことは知っていたでしょう。

なぜ記紀の編纂者が『魏志倭人伝』を読み、邪馬台国や卑弥呼がいたことを知っていたか?というと、神功皇后や推古天皇など女性の登場人物に卑弥呼を擬していると思われる記載があるからです。

神功皇后とは、第14代仲哀天皇の皇后であり三韓征伐をした女性として有名です。

卑弥呼も神功皇后も、神憑りして神の意志を伝えることができたという巫女的な性格があったことがあげられます。

さらに『日本書紀』にみられる神功紀には、『魏志』倭人伝が引用されており、
”魏の皇帝である明帝の景初3年(239)6月に、倭(日本)の女王が大夫である難斗米(難升米)らを朝鮮半島の帯方郡へ遣わし、さらに、皇帝への会見を求めてきたとある。そこで、帯方郡の太守であった劉夏は、難斗米ら使節一行を魏の都へ送った”と記載されています。

景初3年(239)という年は、卑弥呼が魏へ使節を派遣した年として有名です。

このように『日本書紀』には、『魏志倭人伝』を引用し卑弥呼を神功皇后に重ね合わせるような記載が多いことから、江戸時代まで卑弥呼と神功皇后を同一視する考えが定着していました。

神功皇后の実在性は一旦置いておいて…ではなんで卑弥呼が天照大神だとするならばわざわざ神功皇后に擬する必要があるのでしょうか?

記紀は、天皇家中心のヤマト王権の正統性を示すための歴史書であり、その中で天照大神は皇祖神として位置づけられています。
もし卑弥呼が天照大神と同一なら、わざわざほかの人物に擬するようなことはする必要はなく、”天照大神は邪馬台国の女王であり卑弥呼と呼ばれていた”と書けばよかったのではないでしょうか?

それができなかった理由…それは卑弥呼や邪馬台国がヤマト王権と全く別の権力体だったため、卑弥呼を天皇家につながる人物として記すには無理があったからではないでしょうか?

倭の五王と日本書紀


記紀が”卑弥呼=天照大神"と記していない理由として、卑弥呼が魏に朝貢していたことがあげられます。

日本が独立国であることをアピールすることを編纂の目的のひとつとされた『日本書紀』において、『魏志倭人伝』に記されている皇祖神である卑弥呼=天照大神が魏に朝貢していたという事実は、都合が悪い事実となります。

だから記紀では、卑弥呼=天照大神だとは書けなかった…という考え方です。

ではなぜ、倭の五王については『日本書紀』に登場するのでしょうか?

倭の五王とは、中国の『宋書』に登場する倭国の五人の王であり、中国宋に朝貢していました。
倭の五王である讃・珍・済・興・武が本当にヤマト王権の天皇なのか?という議論はあるかもしれませんが、定説通りこの5人が倭王であり天皇家の人物で15代応神天皇~21代雄略天皇の誰かであるという前提で考えましょう。

たしかに『日本書紀』では、この15代応神天皇~21代雄略天皇が中国に朝貢していたことは記されていません
記紀の編纂者が『魏志倭人伝』は読んでいたけど、倭の五王についての記載がある『宋書』については読んでいないと考えるのは不自然なので、15代応神天皇~21代雄略天皇は宋に朝貢していた事実があることは記紀編纂者は知っていて、わざと朝貢していた事実を【独立国日本】には不都合な事実としての記載しなかったと考えるのが自然ではないでしょうか?

しかし記紀編纂者たちは、中国に朝貢していた15代応神天皇~21代雄略天皇の存在自体を記紀から抹消することはしていません。

抹消しなかった理由は、15代応神天皇~21代雄略天皇は正真正銘ヤマト王権の天皇だったからではないでしょうか?

”卑弥呼=天照大神”ならば、倭の五王たちのように中国に朝貢していた事実は記載しないということもできたはずです。

それなのに卑弥呼や邪馬台国の存在自体、記紀に記さなかったということは、邪馬台国や卑弥呼がヤマト王権や天皇家と全く別の勢力であったから。と考えるのが自然ではないでしょうか?

この考え方でいえば、動画の最初の方に疑問として残した邪馬台国に行くのになぜ瀬戸内海を通らなかった理由として、古事記に書かれる初期ヤマト政権の権力範囲に中国地方は含まれないからである。という考え方は合わないのです。

なぜなら古事記に邪馬台国はなかったことになっているためで、ヤマト政権の勢力範囲と邪馬台国の権力範囲を同じと考えるには無理があるからです。

国生み神話で語られる場所が初期ヤマト政権の勢力範囲ということには納得できますが、その国生み神話の勢力範囲はいつの時期で、邪馬台国と一致するのか?はまだ議論が必要なのではないでしょうか?

天石門別八倉比売神社は卑弥呼の墓なのか?


邪馬台国阿波説で考えられている”卑弥呼=天照大神”の根拠は、天石門別八倉比売神社が卑弥呼の墓であり、そこに祀られているのが天照大神の別名である”大日孁命”であるということです。

私も天石門別八倉比売神社に祀られてるのが、”大日孁命”であり、これが天照大神の別名であることには矛盾は感じません。

天石門別八倉比売神社に伝わる『御本記』に伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神(ひるめのおおかみ)といい、またの名を八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ)ということにも矛盾は感じないので、天石門別八倉比売神社にある古墳は天照大神が被葬者と考えるのも自然だと思います。

あとは”卑弥呼”を個人名と考えるか、官職名や巫女職の名前と考えるか?という問題があります。

たしかに、卑弥呼は”日の巫女”と考えることができ、卑弥呼は太陽を祀る巫女職としての名前で代々受け継がれ、代々”卑弥呼”となる人物の中に現在天照大神と呼ばれる”大日孁命”がいたと考えることができます。

そう考えれば、”卑弥呼=天照大神”という考え方は成立します。
でもしかしそしたら、卑弥呼のあとを継いだ台与はなぜ魏志倭人伝に「台与が後をつぎ卑弥呼になった」と記載されなかったのか?という疑問が残ります。

これは私の考えになりますが、天石門別八倉比売神社にある古墳に埋葬されているのが天照大神と考えるのは自然です。

しかし『御本記』に記されているように、もともとあった場所である「東の峰」気延山頂上にあった墳墓が「神陵の径108歩」であることが証明されたり、古墳に埋めたとされる金印が発見されない限り”卑弥呼の墓”と断定するにはまだ証拠不十分だと思うのですがいかがでしょうか?

まとめ:邪馬台国とヤマト政権は別の政権と考えるべき

いかがだったでしょうか?
今回は邪馬台国阿波説から卑弥呼と天照大神の関係について考えていきました。

卑弥呼=天照大神と考えるか否かは、邪馬台国はヤマト王権につながっていると考えるか否か?にリンクしています。

邪馬台国とヤマト王権の関係性の有無は、阿波説だけでなく九州説、畿内説どちらでも論じられる論点です。

私個人の見解として、記紀は天皇家を中心とするヤマト王権に都合の悪いことは書かないので、記紀に書かれないということは邪馬台国や卑弥呼はヤマト王権とは違う勢力体と考えるのが自然だと思っています。

しかし魏志倭人伝の記載通りに進めば邪馬台国は阿波にあると考えられることや、前回の動画で天皇家の発祥の地である高天原が阿波だと考えられるので、そこのつながりの有無についてはまだまだ勉強していこうと思います。

今回も大考察回になりましたので、皆様の温かいコメントで意見をお聞かせいただければ幸いです。

今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりましたので、よろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。




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