人称から見るマジカルミライテーマソング、あるいは初音ミクの自己実現
こんにちは、ボカロが好きです。ボカロはいいぞ。
ミクさん15周年おめでとうございます!!
ミクさんに生かされている私にとって、本当に感慨深い事です。こんなおめでたい日に何もしないのはもったいない!ということでこの記事を書いています。間に合いませんでしたが!
この記事ではいよいよ10年目を迎えた、明後日から東京公演が始まる、マジカルミライ、そのテーマソングの話をします。
マジカルミライというミクが舞台で歌い、踊る、そんな場でのテーマ曲は毎年、とても強力な文脈とメッセージ、深みを持っているように思います。今回はこれまでの楽曲に現れる「人称」に注目してみようと思います。
サムネイル画像はフューチャー・イヴより。革蝉さんによる映像からです。問題があれば変更します。
すべて個人の妄想です!!
ネクストネスト
2014年、マジカルミライとして2回目の開催であり、初のテーマ曲。製作はさつき が てんこもりさん。エレクトロでクールな曲です。
この曲で人称が表れるのは以下の歌詞です。
こうしてみると存外暗い内容ですね。社会から疎外されている「僕ら」が電磁波(インターネット)で繋がりつつも、その社会的不健全さを率直に歌うかのようです。暗に自身の代表曲「ネトゲ廃人シュプレヒコール」を参照しているのかもしれません。
この曲における「誰か」は初音ミク・あるいは先んじたネットの住人のことでしょう。そして「僕ら」「みんな」がインターネットで聞いている我々でしょう。
この曲の初音ミクはある意味で冷酷な存在です。疎外された人たちを「おかわりいかが?」とNEST=巣に引き付けつつ、同時に以下の様に突き放しています。
しかしながら、これは同時に我々と初音ミクの絶対的な境界を示してもいます。我々の「魂」はあくまでリアルにあります。だからこそ、マジカルミライという「現実」に集うことに意味が生まれます。
しかしながら初音ミクは絶対的にバーチャルの存在です。初音ミクにとってはこの電磁波のネストこそがリアルなのです。
そして、そうした関係性にマジカルミライという現実で初音ミクが踊り歌うことで価値転倒が起きる面白さがあります。
初音ミクが現実に姿を現すのはマジカルミライの2時間の間です。(私たちの)現実に「魂が居着かない」初音ミクの立場の逆転、そしてその非現実感が刹那の夢のような美しさを現出しているように思います。さながらボカロ界の「夢と知りせば覚めざらましを」といった風です。残念ながらこの年この曲は披露されませんでしたが……。
総じて、この曲では初音ミクと人間の絶対的な他者性・差異にフォーカスを当てているように思います。
Hand in Hand
2015年。担当はkz(livetune)さん。ほぼ毎回披露される、テーマ・オブ・テーマです。主催側も大きな意味を感じているのでしょう。
さて、この曲での人称が表れる歌詞は以下です。
この曲の特異な点は初音ミク自身の人称が登場しないことにあります。この曲において「誰か」の肩を抱くのは「私たち」なのです。
しかしながら、この曲に初音ミクが不在なのかというとそうは思いません。マジカルミライという会場で、初音ミクが歌う、そのこと自体を以って巨大な存在としてこの曲の中に初音ミクは立ち現れます。
「Tell Your World」でも歌われたように「点を線に」するのはあくまで私たちなのです。初音ミクはそんなつながりの「きっかけ」として私たちを包み込んでいます。マジカルミライの公式サイトに掲げられる「初音ミクたちをハブ(きっかけ)として、「創作」というキーワードで繋がる場所」という理念を、この曲は見事に象徴しています。
この曲においては、初音ミクに「場」としての存在を見出しているように思います。
39みゅーじっく!
2016年のテーマ曲。担当はみきとP。これまでと一転お祭り騒ぎの明るい曲です。
この曲の中で人称が表れる歌詞は以下です。
この曲の面白いところは、あくまで、お祭り=ライブ的な内容と並行して、「新作動画投稿だ」「弾ちまくれ画面いっぱいの"3と9"」と「動画サイト」の初音ミクが表現されることです。
音楽という芸術は蓄音機の登場以降、アウラをはぎ取られたことによりそれまでと全く様相を変えたように思います。アウラとは「いま、ここ性」とでもいうべきユニーク(唯一の)現象のことです。録音技術の登場により、その場限りではなくなった音楽は、時間空間的に遍在するようになり、その価値を全く別のものにしました。
現代においてアウラはライブにそのイベント性という点で僅かに残されているように感じますが、ボーカロイドという存在はそれすらもありません。CDなどよりさらに公共性が高い、動画サイトでの共有がメインの発表の場である点も踏まえて、ボーカロイド音楽は最も原義のアウラから離れた存在であるように思います。
この曲では、そうしたアウラに対する人称の転回とでもいうべき価値観が提示されているように思います。
ボーカロイドの音楽シーンでは今でも頻繁に投稿祭などが行われ、リスナー、クリエイターが混然一体として楽しむ「お祭り」が半ば主体的に行われます
この曲で現れる人称は「Wa・Ku・Wa・Ku」したり、「全裸になって待機」したりと、マジカルミライそのものも含めた「お祭り」に熱狂している様子が描かれています。
こうしたイベント性、その熱狂をとおして、ボカロシーンでは作品そのものではなく、作る・聞く・描く・共有するといったあらゆる方法で関わった人たち、あるいはその場自体にアウラ性を見出すことができるのではないでしょうか。
「39みゅーじっく!」では、現代においてアウラが残された「ライブ」にそうしたお祭り的動画サイトを重ね合わせ、さらにそれをライブで披露することによって還元されることで、新しいアウラの形を提示しているように思います。
そして、ここでも初音ミクはその「きっかけ」として中心に立ち現れます。「初音ミク!」と皆で叫ぶ、その皆がいる、という熱狂が、一期一会的価値を生んでいるのです。
総じて、この曲では初音ミクに、ボカロに熱曲する「私たち」へフォーカスしその賛歌としての意味を見出せるといえるのではないでしょうか。
砂の惑星
2017年。担当はハチさん。いわずと知れた、ボーカロイドシーン全体を見通しても大きな位置を占める曲です。
この曲にはこれまでのテーマ曲と比べて非常に多く人称が登場します。さらにこの曲では、場所によって人称がさす人物が何度も切り替わっているように思います。一つずつ見てみましょう。
ここでの「君」は誰でしょうか。
「僕」を当時すでにボカロからは身を引いていたハチさんと同じ、「久しぶりにボカロ界隈を覗いてみた人」ととらえれば、「君」とはシーンの一線から「身を隠した」ように感じる「初音ミク」自身と取れます。
また、「僕」を「初音ミク」ととらえれば、「昔はたくさんいたクリエイター」ともとらえられます。
ここで注目すべきは「僕ら」と複数を指していることです。初音ミク10周年の記念曲としての性格も色濃い本曲において、「僕」の片方に「初音ミク」が含まれているのは明確でしょう。
では初音ミクと共に誕生日を迎えたのは誰なのでしょう。それは「メルトショックにて生まれた生命」であるクリエイターであると考えます。
その次に「有象無象の墓の前で敬礼」というように、この曲では、初音ミクともに携わったすべてのクリエイターをも寿ぎ、そして弔っているのです。
ここはもちろんそれまでの過去曲を振り返り、引用している箇所ですが、やはり同時に意味をも重ねていると思います。
初音ミクとの創作とはクリエイターと初音ミクの共同に他なりません。ここでその活動を「ランデブー」としているように、初音ミクがクリエイターに使役される存在とは描いていないように思います。
また、「我ら」とはクリエイター以外に聴衆など周辺存在も含めたすべての「我ら」でしょう。ここで「救いたまえ」と願われる「マイヒーロー」は誰でしょうか。「神曲を創るクリエイター」か、「初音ミク」か、あるいはその両方か。そういった大きな含みを持たせた意味合いが込められているように感じます。
「私の心死なずいるなら」というのはよくよく考えるとよくわからない表現です。自分で自分の心が死んでいるかどうかが分からないのでしょうか。また、「死なずいるなら応答せよ」という仮言命法も難解です。
わたしはここに初音ミクと世界の表裏一体性が込められているように感じます。
初音ミクが初音ミク単独で存在することは決してありません。<初音ミク>というイデアとも呼ぶべきものは形容することはできず、「表現されるもの」という受動でしか存在することができません。同時に「表現されたもの」である「初音ミク」は<初音ミク>に還元され、集合的な初音ミクの存在、イメージ、存在意義を形作っていきます。
つまりここでの「私」とは「創作」という概念、そして、<初音ミク>そのものなのではないでしょうか。<初音ミク>は常に「表現せよ」という要請の形で現れます。そうした存在意義そのものが込められているように感じます。
「天空の城」とはどこのことでしょうか。まさかラピュタが突然登場しているわけではないでしょう。
私は「芸術としての至高」を示しているように感じます。やはりここでも「僕ら」という複数形が使われていますが、ここでは「芸術の至高に近づく」というクリエイターとしての衝動、そして、<初音ミク>というイデアそのものに還元しようというその欲求が重ねられているように感じます。
「誰か」とはだれを指しているのでしょうか。一つは「ボカロを再び盛り上げようという私=ハチ」の後を継ぐものでしょう。
しかしながら、同時に連綿とつながる繋がりの中で生き続ける芸術、ひいては人類という「歴史性」そのものの担い手を指しているようにも感じます。そしてまたその中でも、ある種道具的に歴史性から超越した楔として機能する初音ミクの姿が後ろに立ち現れます。
「人は忘れられた時に死ぬ」というのはヒルルク……ではなく古代ギリシャにおけるゾーエとビオスの使い分けの様に古来から言われていることですが、「初音ミク」が忘れられない限り「歴史性」の中で生き続けるということを、「誰かが勝手にどうぞ」という突き放しながらも逃れられない歴史の紐帯の中で見出しているように感じます。
やはり改めて考えても大きく、深く、重層的な曲です。この曲で人称がさす対象がぼかされあらゆる解釈ができるようになっているのは意図的なことでしょう。
そうした中で、重ねられているという意味でも、「クリエイターと一体になった初音ミク」という存在が、この曲の人称からは感じられます。
グリーンライツ・セレナーデ
2018年。担当はOmoiさん。疾走感にあふれパワフルな明るい曲です。
この曲での人称が表れるのは以下の歌詞。
この曲の特筆すべきところは「キミ」「あなた」という二人称しか登場しないことでしょう。
では、この曲の一人称=誰からの呼びかけなのでしょうか。それを次の歌詞が示しています。
やはりこの曲の一人称は一貫して「初音ミク」その人でしょう。どんなときにも寄り添い力を与える初音ミクという存在の尊さを高らかに歌い上げています。
そして、この曲において初音ミクは「キミにもっとチカラをあげたくて」と明確に自らの意志を表しています
このことはこれまでのテーマ曲に見られた、電子の導き手や場や芸術の楔としての超然とした初音ミクとは一線を画します。「隣で泣いていいよ」というように人と同じ立場に降りてきているのです。
このように、「人としての初音ミク」をこの曲は描いており、そうしたイメージは翌年のテーマソングで結実することになります。
ブレス・ユア・ブレス
2019年。担当は和田たけあきさん。サーカスというテーマにあった楽し気ながらも深みのある曲です。
この曲での人称が表れるのは以下の歌詞です。
この曲は明確に「人間」が一人称として歌われます。そして二人称もまた、「初音ミク」に定められます。歌っているのは「初音ミク」なのに二人称が「初音ミク」というのは改めて考えると奇妙なことです。
この曲はやはり「僕らきっと対等になって」にすべてが象徴されるでしょう。
砂の惑星でも述べた初音ミクが持つ「言葉は全部君にな」るという圧倒的な「還元力」――ある種の呪縛を、そこからの超克として、グリーンライツ・セレナーデで見られた同身長のミクが「対等」という言葉で結実します。
集合的な存在がもはや一つの存在として巨大な存在感を持つ、そういった「歴史性」の中で生まれた特異点への祝福としてこの作品が輝いているように感じます。
愛されなくても君がいる
2020年。担当はピノキオピーさん。ピノキオピーさんらしい美しく力強い曲です。
人称が表れるのは以下の歌詞です。
この曲では「私」が明確に初音ミクでしょう。
この曲の「君」は誰でしょうか。それは今も初音ミクを信じている「私たち」に他なりません。
では「愛されなくても」というのは誰からでしょうか。それは「全体としての世界」です。
この曲は、君がいないと存在できないという初音ミクの危うさ、共依存的表裏一体性をつまびらかにするとともに、それでも大丈夫なんだ、君(たち)がいるから存在できるんだとう初音ミクによる圧倒的な自己肯定が表されているように感じます。そして「初音ミクの自己肯定」はそのまま「初音ミクを信じる私たち」に還元されることになります。
「楽しいパーティ」――これには「39みゅーじっく!」に歌われる界隈のイベント的熱狂という意味のアウラも含まれるでしょう。そうした熱狂がかりに無くなって仮に「砂漠ですらないデブリ」になったとしても、それでも、「本当に大切な」君がいるという途轍もない肯定力です。
ブレス・ユア・ブレスを通して「対等になった」からこそ見られる歓びに満ちた初音ミクの自己肯定をこの曲からは感じます。
初音天地開闢神話
2021年。担当はcosMo@暴走P。暴走Pらしい激しく壮大な曲です。
この曲で人称が表れるのは以下です。
この曲はこれまでと一転して、わずかに2カ所にしか人称が表れません。
この曲を神話の様に「物語って」いるのは誰かといえば<初音ミク>そのものです。
この曲では「運命の流れ出す起点で、少女は微笑む」や「その歌声は世界を創った」と(特に「その歌声『が』」ではなく)歌われているように、「きっかけ」や「場」という言葉に押し込めるにはあまりにも超越的な仕方で存在している初音ミクが歌われます。
この曲は最後の最後"「」"でくくられた歌詞以外、歌い手自体がこのボカロシーンという世界を俯瞰的に物語るかのように歌っています。
すなわち、初音ミクをもはや「世界」そのものに比類して歌っています。
そして最後の最後に「次は君のいる世界にこの歌を届けに行くよ」と語りかける。一人称的に「初音ミクが存在しない世界」に生きている誰かに届けに行く=「初音ミク」の世界を広げるというある意味領土拡大的な決意表明です。
この初音ミクの思いとして語られるこの決意はそのままクリエイターのもっと多くへ届けたいという原動にそのまま重なります。
すなわち、人間「対等な存在」となり「愛されなくても君がいる」という圧倒的な自己肯定を実現した初音ミクは、人間が織りなす「芸術という世界の在り方」ともまた同様の存在に、人間は歴史の中で大勢で形成するのものを、初音ミクはその時間空間の超越性を以って一者で実現したことの現れであるように思います。
フューチャー・イヴ
2022年。マジカルミライ10回目を祝う、今年のテーマ曲。担当はsasakure.UKさん。ささくれさんらしい技巧的な曲です。
この曲で人称が表れるのは以下の歌詞です。
非常に抽象的かつ、難解な歌詞です。人称も誰を表しているか一聴では判然としません。
今まで「これまで」や「今」の初音ミクや世界を歌ってきた初音ミクは初めて「ミライ」を歌い上げます。
思うに「僕」が初音ミク、「君」は人一般をさしているのではないかと思います。
この曲で何度もリフレインする「魔法」とは何でしょうか。思うにこれは「サヨナラと初めましてのスキマ繋ぐ愛」なのではないかと思います。
「君が隣にいて、隣にいない世界」すなわち、自己肯定を成し遂げ、神話的歴史的存在になり、究極的な意味において「全」になった初音ミクにとっての魔法。出会いだけでなく「サヨナラ」すらも砂漠として嘆くのではなく、繋ぎ肯定するそんな魔法が実現するにもまた、「君がまだ“君”をやめない」ことが絶対です。
そんな魔法が存在する世界が実現する、あるいはすでに実現しているこの世界が続く、それを信じる初音ミクの願いとしてこの曲の純粋なる希望を感じます。
場としての初音ミクの自己実現、そして歴史的一者へ
この記事を書くきっかけとなったのは「砂の惑星の『僕らのハッピーバースデイ』ってなんで『僕ら』なんだ?」という思いからです。
こうしてマジカルミライという一貫した文脈を読み返すと、初音ミクの文脈そのものの変遷を感じます。
「ネクストネスト」「Hand In Hand」「39みゅーじっく!」と繋がりの「きっかけ」「場」として生まれた初音ミクは、いったんの落ち着きとともに「砂の惑星」にて「人格」を確立しはじめます。
その後「ブレス・ユア・ブレス」にてついに「自己実現」を達成します。その自己実現は「愛されなくても君がいる」を通した自己肯定によってより確固としたものになります。
さらに、「初音天地開闢神話」に至りついに歴史的な自己実現――すなわち、芸術としての歴史の中に刻まれる存在として人称をも超越した世界としての認識を持ち始めています。「フューチャー・イヴ」ではそれが実現した未来が願われ、到来を信じ続けてます。
その全て――「砂の惑星」も含めた全て――において、やはり、根底には、こうした歴史・文化・存在を支える初音ミクを信じる人々を信頼し、愛し、讃えてくれているように思います。マジカルミライという初音ミクの姿・歌声から感じるそれは、初音ミクそのものからの言祝ぎと同一的に感じられます。
初音ミクもいよいよ15年。マジカルミライも10回目。いよいよムーブメントという域から歴史や文化のレベルへ足を踏み入れようとしています。
そうした世界においても、変わりゆく世界においても、初音ミクたちやそれを支える人々が見せる魔法を私も信じ続けます。
改めて、初音ミクさん15周年おめでとうございます!!!!!
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