砂山のパラドックス

コロナで自主的に外出を自粛している中、ネットサーフィンが唯一の暇つぶしの僕です。ケビンです。

今日も今日とて、自堕落にネットサーフィンをしていたところ「砂山のパラドックス」という何やら厨二心をくすぐる名前を見つけたので浅はかに調べてみた。

wikipediaによると(以下wikipediaより抜粋)

「砂山のパラドックス(すなやまのパラドックス、英: paradox of the heap)は、述語の曖昧性から生じるパラドックスである。古典ギリシア語で"heap"を意味する「ソリテス」(σωρίτης、sōritēs)にちなんで[1]、ソリテス・パラドックス、ソライティーズ・パラドックス(英: sorites paradox)とも呼ばれる。

砂山から砂粒を取り去っても依然として砂山のままだが、それから何度も取り続けて、最終的に一粒だけが残ったとき、その一粒だけを指して「これは砂山である」と言えるのか、という問題である。定義や境界値が明確でなく曖昧な概念をどう扱うかという問題であり、主に論理学の哲学・言語哲学において問題になる。というのも、論理学や数学などの科学においては、全ての概念が明確でなければならず、通常の方法では曖昧な概念を扱えないからである。」

というものでした。

ふぅーん。いや最後のひと粒になったらもはや砂山じゃないっていうのは感覚的に分かりますよね。

ただどこからが砂山で、どこからが砂山じゃないか。これは明確に定義されている訳ではないので難しいところですよね。

wikipedia様によると

「自明な解決策は、砂粒が何粒集まっても「砂山」にはならないとすることである。言い換えれば、「砂山」という言葉は検証可能な明確な条件を備えていないから無意味だとするのである。この考え方をつきつめれば、メレオロジー的虚無主義に到達する。

バートランド・ラッセルなどの哲学者は単に、あいまいな概念には論理を適用できないとする。」

ふむ。なるほど。ちなみにメレオロジー的虚無主義っていうのは「『全体は諸部分の総和にすぎない』ならば、あらゆるものは人間が作り出した虚構・名前だけの存在であり、この世には何ものも実在しない。」という考え方。(大学の哲学の教授と喋ってたときにwikipediaに記載されている文言と一語一句違わず上記の文章を言ってたけど、教授もwikipedia見るんだなぁ…と思った学生時代)蛇足でしたね。

つまり、砂山の定義がそもそも明確でないから議論する意味がないぞってことね。うーーん。確かに僕は結構賛同しますこれ。

次に固定の境界値の設定することで解決しようという考え。(以下wikipediaより抜粋)

「このパラドックスを聞いた大抵の人が最初に考えることは、「砂山」と呼べる砂粒の数の下限を設定することである。例えば、ある人が1万粒を下限とした場合、砂山から砂粒を取り除いていって1万粒未満になった時点で、「砂山」ではないとする。

しかし、この解決策は哲学において公認されるようなものではない。なぜなら、9,999粒と10,000粒の差異はほとんどないからである。つまり、10,000粒なら砂山で9,999粒なら砂山でないという定義は、0粒なら無で1粒でもあれば砂山だとする解釈の境界値を意図的に変えたに過ぎない。それにも関わらず、このような明確な線引きが実社会ではよく見受けられる。例えば、学力検査では一般にある点数以上の成績を上げないと合格とされない。他にも" That's the straw that broke the camel's back."(Straw that broke the camel's back)(ラクダの背骨を折るのは最後のワラ一本)ということわざのように明確な境界値があるように見えるものもあるが、実際にはラクダの個体の選択などいくつかの点で任意の選択がなされている。」

ふぅむ。要はあんま意味ないぞってことですね(投槍)。確かにこれは僕でも何か違うなぁって思います。


まぁなにはともあれ、砂山だって思ったら砂山でいいじゃない。

浅学非才のケビンは染み染みと思うのでした。


…こんなこと言ったらガチ学者に説教されそうだけども。

パラドックス系は面白い話いっぱいありますよね。何かまた調べてみようかなと思いました。

それでは、さようなら。

おやすみなさい。

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