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認知症の時間感覚

ツレと同じD LBと診断され、患者の立場からDLBの症状について作家活動を続ける樋口直美さんの新著『レビー小体認知症とは何かー患者と医師が語りつくしてわかったこと』を読んだ。
著書の中で樋口さんが時間感覚について話していた。

「昨日、何してた?」と言われても答えられない。忘れたのではなくて、昨日という時間がいつのことなのかわからないんです。(中略)
 出来事をどんどん忘れるわけではないんです。ただ、人と話をしていて「それは、いつ?」と聞かれると、見当がつかないですね。(中略)
 (時間感覚は)一列ではないですね。ぐちゃぐちゃというか、濃霧の中にふわふわ浮かんでいるような感じもして、よく見えないし、距離感もないし、自分で掴めない感じです。
 でも時間以外のヒントがあれば、パッと思い出せるんですよ。例えば手帳を見れば予定が書いてありますね。地名とか人名とか。それを見れば、何をしたかはっきり思い出せるんです。

レビー小体型認知症とは何か ─患者と医師が語りつくしてわかったこと

樋口 直美 著 , 内門 大丈

この箇所を読んで思い出したことがある。息子が小さかった頃、彼には大人と同じような時間感覚はなかった。過去に起こったことは「昨日」、これから起こることは「明日」と表現していたのだ。1ヶ月前に遊園地に行ったことは「昨日、遊園地に行ったやん?」だし、夏には海に行こうねというと「明日、海に行く!」みたいな感じ。未来のことは「何回寝る」で何日後のことか理解していた。昨日、今日、明日、1週間、1ヶ月などの時間感覚になったのは小学生になってすぐのことだった。

息子が小学校に通い始めて時間割と遭遇した。学校の時間割で1時間目は国語、2時間目は算数、みたいなスケジュールで毎日過ごしていると、1ヶ月も経たないうちに「昨日、明日」が一直線上に並ぶ概念として理解できるようになったのだ。

こういった、世界を歴史的時間感覚で理解するのとはまた違った理解がある。強いて言えば、レヴィ・ストロースの『野生の思考』のような。そうやって考えるとDLBの思考って、よく言われるように「認知症だから何も理解できない」のとはちょっと違うのかもしれない。

例えばツレはよく、かつて働いていたMTAのユニオンホールに出かけないといけないという。地下鉄に乗ってしまって探し出すのが大変だったこともあった。そんな時は自分がもうリタイアしたことよりも、いつも行っていた場所に行かないといけないという記憶が浮き上がってきているのだと思う。リタイアしたことを忘れたわけではないのだ。後で、リタイアしたのでもう出かける必要はないのよというと、Oh, OKとホッとしているみたいだし。

一般的な理解では解決できないけど、ツレなりの理解には時間系列的な順序はないということを私が理解することで、ツレとの関係というか彼の日常生活が混乱に落ち入らないようにできる方法があるのじゃないかという気がしてきた。ツレが混乱せずに心穏やかに毎日を暮らせるように、私にもっとできることがある気がしてきた。そんな気持ちになれて、いい本に出会ったなぁと嬉しい。DLBの症状について自身で発信できる人は数少ないけれど、活動を続けてくれている樋口さんに感謝したい。そして、レヴィ・ストロースの構造主義は理解するのが難しいけど、また読んでみたい。


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