年の瀬が迫る中、記録したいと度々思っていた「酒」について、ふと書き残しておかねば、と発奮したのでここに軽く書き残す。
酒について書く上で、酒を飲んでいなければ酒に対して失礼である、というチンケな哲学があるので、午前中からヱビスビールを呷り、自分の中での「酒」を整理したい。

なぜ酒を飲むのか?について、個々人に種々意見はあるだろうが、自分は「自己の認識=世界と正対するため」という意見を堅持している。
度々酔っ払って話しているところではあるが、自分が「自己の認識=世界」という結論に至ったのは、終電間近の下り京浜東北線車内だった。車内には、世界最大のゾンビ街東京から北関東諸方に輸出される優秀なる国産ゾンビが跳梁跋扈している。(これを書いている時点で既に酒が回ってきている)
素面であった場合の自己の状態を想定したい。ゾンビ輸送船内の一席に身を置いて、「精神まではゾンビにおかされまい!」という決意表明を密かに心に秘める。しかし、上記の通り心と身体の状態は矛盾を孕んでいる。この乖離状態に頭を悩ませつつ、どうしたものか…と宛てのない思考に支配される。少なくとも幸福ではないのは明白である。
しかし、ある晩の下り京浜東北線車内では、外界は全く同じ様相であるにも関わらず、心は幸福に満たされていた。すなわち、酒に酔って脳が麻痺状態に陥った結果、理性では定義できない認識の好転が発生し、心の幸福に至った。こう書き記すと呆気ないが、疑いようがないのはこの瞬間自分は幸福であって、それを他者に否定されようがいくらでも反発する気概があった。理屈ではなく本能から来る幸福である。例え一過性であっても。この一過性の問題については後述したい。
各種感覚器官で外界を観測し、それらが得た信号を脳が処理し、外界に対する認識を構築する。この一連の流れが、素面と酒に酔った状態との対比によって浮かび上がったのが、この時であった。つまり、脳の状態によって認識が変質する時点を見たのである。認識の外に出るのは脳の統制に人間が支配されている以上不可能なので、認識は世界と直結するのである。酒を飲めば五感の認識する世界は無限の可塑性を垣間見せる。

後回しにした一過性の問題についての私信も書き残しておきたい。
一過的なものは通例蔑ろにされがちだが、自分の場合は一過を重視している。一過であってもそれを積み上げれば連続性を手にする。そうなると必然的に永遠に酒を飲めば幸福なのか?という問いが生じるが、そうではない。酒という装置は厄介な薬で、処方箋は個々人の裁量の中にしか存在しないにも関わらず、適量を服用しないと効能を発揮しない。自分の場合は、酒を飲み続けると世界が消失する。つまり、自己が外界を観測する責任を放棄し、世界が一時的に消失するという副作用が発生するのである。
(この悪質な副作用のせいで、各方面には多大な迷惑を掛けたことを、この場を借りて謝罪したい所存でございます。本当に申し訳ございません。)
世界が存在しないのなら酒を服用しても何ら効能を発揮しないので、やはり酒の服用量は自己の統制下に置かねばならないのである。

酒に身を任せて書き残しているので、この時点で結構回っている。思考の射線も大いに散逸した。
端的に言うと、酒は認識をその時々の深層心理に引き寄せる形で変形させる。苦境にある場合は苦境をより強く認識させる形、あるいは楽観にある場合は楽観の境地に至る形、という風にである。
自分は精神の沈着状態でそれなりの深酒をしたことがあるが、そうした状況下ではより一層外界が恐ろしくなり、底の更に下を見る気分でもうこりごり、となった。
「酒飲めば楽しいよ!」などと他人(特にフニャチン→女)へ無責任に吹聴する輩が散見されてゾッとすることがある。お前の中では確かにそうなのかもしれないが、お前の世界を勝手に敷衍して他人の世界を矮小な物差しで定義しないでほしい、と思うのは自分だけだろうか。酸いも甘いも増幅させて見せてくるのが「酒」、というのが自分の中でのアルコールの立ち位置である。幸いにも、自分はそれなりに外界からの刺激に対し楽観的なので、外界からの危機に脅かされない限り酒はフニャチン閣下仰せの通り、楽しくなるための薬である。

楽しい状態、苦しい状態に否応なしに向き合わせてくれる、若しくは無理矢理顔を向き合わせてきやがる、つまり「世界と正対するための装置」が自分の中での酒である。

丁度ここでビール一缶が空いた。次は冷蔵庫の翠ジンソーダに手をかけようか…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?