「曖昧さ」を美味しいと思える強さについて


1. はじめに

 我々にとって、不鮮明なものは常に恐怖の対象であった。この恐怖を和らげるために、人間は世界を切り分け、それぞれに名前を付け、すなわち「理性の光」でその輪郭を照らしてきた。その結果、暗闇やカオスは我々の理解可能なものになった。

 その反面、理性によるカテゴライズから零れ落ちるものがあることを、最近になって我々は気が付き始めている。

 例えば、現代になってやっと、男女という二項対立ではとらえられない性のかたちについて議論されるようになった。それは「新しい性」なのではなく、人間が作り出した男女という性のカテゴライズにそもそもの問題があったという批判がなされるのだ。

 また、ナチスドイツや南アフリカなどでの人種差別的政策が反省される中で、特定の人種にまつわるレッテルが人間一人ひとりの個性や尊厳を侵害してきたことが批判されてきた。

 このように、「理性の光」が照らせなかった影の部分に注目したり、行き過ぎた細分化・分類を反省したりする営みが積み重ねられてきている。

 にもかかわらず、この世界に男女や人種の枠組みの押し付けは消え去ったとは言い難い。むしろ、情勢が悪化する中でその問題の重大さは肥大しているとさえ言える。なぜなら、それらの枠組みやレッテルにすがるほうが、圧倒的に「怖くない」ゆえに、不安の強い時代であるほど我々は既存のカテゴライズを受け入れてしまうからだ。

 実存主義者たちが問題にしたように、我々にとって不鮮明で未確定な「暗闇」に向き合うことは、常に不安なのである。

 

 この「不安」と戦う強さが、我々にはあるのだろうか…?

 

 前置きが長くなってしまったが、今回紹介するのは、「美味しい曖昧」というアイドルグループである。以下が紹介文である。

 

5人組アイドルグループ【美味しい曖昧】(おいしいあいまい)

【友人関係、恋愛、自分のこと、自分じゃないこと、そんな誰もが持っている“曖昧”な気持ちを否定せず、戦いたい人には勇気を、傷ついた人には居場所を与えたい】という気持ちを、少し複雑だけどあくまでキャッチー(美味しい)な邦楽ロックサウンドに乗せて伝える。

 

ここからわかるように、「キャッチーな邦楽ロックサウンド」などの文言があるとはいえ、ほかの多くのアイドルがしてきたような、目立つ「コンセプト」がない。むしろ、自分たちに「コンセプト」を与えることを忌避しているようにも思える。(コンセプトを避けるということは、コンセプトを完全に否定するということではない。コンセプトを設定するかどうかという問題を「保留」しているのだ。)

 アイドルにとって「コンセプト」とは、自分たちをほかのグループから差別化するためのものである。本来それが最も顕わになる紹介文において、むしろ差別化といった概念とは衝突する「曖昧」という言葉を選んでいることは、注目に値する。

もちろんこれは、一種の自信の表れなのかもしれない。目立つコンセプトに頼らなくとも、非常に優れたパフォーマンスをするグループであることは、ライブに行けばすぐにわかることだ。

しかし美味しい曖昧が我々の心をつかんで離さないのは、「曖昧さ」に向き合う強さを持っているからだと思う。

 

2.「ユーグレナはわかんない」- 保留の美学

 

わかりやすい楽曲から紹介したい。「ユーグレナはわかんない」という曲がある。

ノリのいいポップチューンだが、その歌詞はこのグループの紹介文に非常に近い香りがするのだ。

 まずタイトルにもあるような「ユーグレナ(=ミドリムシ)」や、二番に出てくる「カモノハシ」といった、分類上「中途半端」な存在の名前がまず耳につく。一番の歌詞にもあるように「分ければ分けるほど あぶれるもの」の代表格なのだろう。歌いだしからすでに、分類しえないものに目を向けている。

 この曲で最も注目したい歌詞は、一番のサビの「決められなくっていいよ 決めてしまってもいいよ」である。

 アイドルの紹介文の説明をしたとき、私は「コンセプトを避ける」、「保留にする」という言い方をした。「コンセプトを否定する」と言わなかったのは、コンセプトの否定が強制力を持ってしまえばそれ自体がコンセプトになりえてしまうからである。

 サビで「決められないこと」ないし「決めないこと」だけでなく、「決めてしまってもいい」と言っているのは、まさに決めるという営みそれ自体の是非を保留にしていることを示している。ここに、このグループの真の意味での(そしていい意味での)「コンセプトのなさ」が表れているのではないだろうか。

この曲で繰り返される「そのままでいい」というメッセージには、我々が選択しうるアイデンティティの可能性を一つも否定することなく、さらに選択するという行為そのものについてすら不問にする、より純粋な形での「存在の肯定」を感じることができよう。

 

3.「角砂糖とセイロン」 - 「うざい」という切実さ

 一見爽やかな四つ打ちロックである。だが、歌詞は強烈だ。「うざい」「イライラ」「キモい」なんて言葉が飛び交う。

 先ほど紹介した「ユーグレナはわかんない」が、「そのままの君」の肯定を歌っているとすれば、この曲は「そのままの私」をさらけ出す、本音ソングと言える。ベクトルは違っても、多様であることをテーマにしていることは変わりがない。

 サビで「多種多様約100種類程度 その全てが私なの」と歌われる。自分という一個の存在の中に、たくさんの自分が境界線も曖昧な状態で、共存している。それらはぶつかり合ったり混ざりあったりしている。それを安易に外から決めつけたり、レッテルをはったりというような「小さじ1杯浅い共感じゃ」理解できるはずがないし、されたくもないのだ。

 曲を聴き進めていると、自分の中にある多様性が「血の迷いと死闘」(精神的及び肉体的な不具合を示す)ないし「毒みたいな“不味い正論”と私の正義」(セイロンティーと正論が掛かっている)というように、葛藤や衝突として描かれている。この点については「サイカイノユメ」の項で詳しく述べるが、この葛藤の深さこそが、「うざい」という感情の理由なのだ。

 自分の中身が「多種多様」であるのにもかかわらず、一つの個性でアイデンティファイされる。それだけでも十分に「うざい」だろうが、なによりも自分の内的な戦いに、その痛みやストレスに想像が及ばないことが最も「うざい」のだ。特に、体調の悪い時に出会ってしまった「精子脳」の男に対してはなおさら。

 この曲は、理解されない「本当の自分」の苦しみを歌ってくれるとともに、安易に(特に性的に)共感することを戒めている。アイドルがファンに対して歌う曲にしてはかなりアグレッシブだが、これも一つの「そのまま」な音楽ということで、非常に魅力的に感じられる。

 

4. ネガティブ・ケイパビリティという概念について

 

 ここで一度、楽曲の説明から離れる。

 哲学や文学の領域において、「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念が存在する。この言葉はジョン・キーツというイギリスの詩人が編み出したもので、「不確実なもの、未解決なものを受容する能力」を意味する。

 初めにでも述べた通り、わからない・曖昧という状態は人間にとって恐怖の対象である。物事を曖昧な状態なまま受け入れるということは、その恐怖に抗うことであり、一種の強さが必要となる。

 この強い寛容さこそがネガティブ・ケイパビリティであり、そして美味しい曖昧というアイドルの魅力ではないかと考えている。

 「そのままの君」を肯定することも、「そのままの私」をさらけ出すことも、どちらも曖昧さや混沌さを直視しているからこそできる。外から枠組みや規範を持ち込んだりして、その曖昧さを「整理」「分類」することで消えてしまう我々の個性や尊厳を、何より大切にしており、だからこそ過激な言葉選びになることもあるのだろう。それだけ、彼女らの思いが、そして彼女たち自身が「強い」のだ。

 ネガティブ・ケイパビリティという概念は、コロナウイルスの蔓延や戦争、いまだ残る差別や偏見といった終わりの見えない現実に対して絶望しながらも、それを一度受け入れて生きてみる、という意味で、現代でこそ高い重要性を持つと思う。同時に、美味しい曖昧が我々の心を掴んで離さないのは、このネガティブ・ケイパビリティを実践している、すなわち、自分や自分じゃないことを「曖昧なまま受け入れ」ているからだと考えている。

 

5.「サイカイノユメ」 - それでも「答え」を探して

 

 再度、曲について書きたい。この曲は感動的なロックバラードで、随所にメンバーの名前が入っているのも素敵だ。

 以下に、サビの歌詞を引用する。

 

 あやふやにした答えが胸の奥で

叫んでる

 いつかきっと 迎えに行くよ

 もう諦めないから

 

 今まで話してきたように、彼女らは「曖昧さをそのまま受け入れる」ことを目指してきた。

 しかしここでは、曖昧さに抗っているようにも見える。「あやふやにした答え」に対して、「迎えに行く」と言っている。答えを出さないことが、ある意味このグループの特徴だったはずが、この曲に至って、明確に「答えに向かって」いるのだ。同様に、

 

 不確かな空を見上げ

 手を伸ばすだけの日々だ

 曖昧な未来だから 消えそうになる

 それでも夢を選んだ

 自分を認めてあげたくて

 

 とある。「手を伸ば」したり、「夢を選ん」だり、むしろ曖昧ではない「答え」を求めているようにも思える。

 私は、このグループの最大の魅力が、ここに表れていると思う。YouTubeに上がっている1stワンマンの最後にこの曲が披露され、我々が感動したのは、この一見矛盾ともとれる部分にあるのだ。

 「角砂糖とセイロン」の項で少し述べた「葛藤」は、まさにここに繋がってくる。曖昧さを全面的に受け入れるというスタンスを取りながらも、常に心の奥で「答え」を探している。不鮮明であることを良しとしながらも、鮮明な夢に手を伸ばしている。むしろ、本当の「答え」を真剣に求めているからこそ、短絡的でインスタントな「答え」では満足できないのかもしれない。

彼女らの「曖昧さを美味しいと思う方法」とは、単に受け入れるだけではない。不鮮明で曖昧な暗闇から目をそらさずに、その中に真実を追い求めようとするその葛藤・戦いのプロセスこそが、その方法なのだ。

 

6.最後に

 

 冗長な駄文を連ねてしまったが、少しでも美味しい曖昧の魅力が伝わればと思っている。

 ただ、こういった一種哲学的な解釈などしなくても、楽曲の良さ、メンバーの個性と魅力、パフォーマンスの質の高さなどだけでも、人々の心を魅了できるほどに素敵なグループだ。

 私もまだファンになって日がとても浅いので、古参の方からすれば何を偉そうに…と思われるかもしれない。それでも、ファンになりたてだからこそ、この燃え上がるような気持ちを伝えられるのかもしれないと思って、この文章を書いていた。

 機会があれば、また是非美味しい曖昧のライブに行き、その姿を目に焼き付けたいと思っている。

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