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「双頭」——『さよならデパート』ができるまで(14)

ノンフィクションの執筆には、ある悪魔が潜んでいる。
彼は原稿の空白を住処にした。時折そこから顔をのぞかせ、ぬらりとした肌を光らせながら私に向かってほほ笑む。

「そういうことに、しておきな」
彼がささやいた。
広い聖堂に響く鐘のように心地よい。思わずふらふらと足を前に出す。
私の袖を誰かがつかんだ。振り返ってその姿を目に映し、ふと我に返る。そんなことが幾度もあった。

資料探索をしていると、しばしばドラマのようなエピソードに出会う。
葛藤や対立、挫折や克服がうまく配置され、本当に映画にでもなりそうだ。
ただし途中までは、だけども。

「事実は小説より奇なり」
そんな言葉もあるが、大抵は小説の方が「奇」だ。だってそういう風に作っているから。
だけどドラマチックな現実の端っこに触れると、資料をにらむこっちはつい期待してしまう。

——もしかしたら、この後にもっと劇的な展開が待っているんじゃないか。
——この人物は、こんなことを考えたんじゃないか。

実らない。
アクション映画のような激しい立ち回りはないし、推理小説のようなどんでん返しも起こらない。
せめて登場人物の心をのぞくことができれば、といろんな資料に手を伸ばすけども、胸の内についての記述は見つからない。

そんな時、私をじっと見つめてくるのが奴だ。
原稿の空白から這い出てくる悪魔だ。

「そういうことに、しておきな」

彼のささやきは甘美だ。
私に「創作してしまえ」という。
確かに、ほんの1行のフィクションを差し込むだけで、物語はたちまち華やかさを帯びるだろう。つい身を乗り出す。

私を引き止めたのは、かつて街をつくってきた人々だ。
そして、いつか完成したこの本を手にしてくれるだろう人々だった。

きれいなストーリーにしたい。
そんな自己中心的な欲のために、過去をねじ曲げ、未来に手渡してはいけない。
甘い言葉に誘惑されるたび胸に刻んだ。

ノンフィクションの執筆とは、いくつものブロックを積み上げてオブジェを作るような仕事だと思う。
一つ一つのブロックはあらかじめ形が決まっている。創作小説だったらブロックの形状から考えられるけど、そうはいかない。

だから積み方を考える。
どのブロックを選ぼうか。どこに置いたらいいだろうか。光はどっちから当てるべきだろうか。どこかに新しいブロックは隠れていないだろうか。
そんな思案にふけりながら、少しずつ『さよならデパート』という立体を育てていくのだった。

ちょっと脱線する。
いや、脱線でもないのだけど。

ブロックとはつまり資料や対面取材から得た情報なのだが、ある資料に当たった際、何とも暗い気持ちになってしまったことがある。

それはいわゆる「人物伝」で、すでに亡くなった方について書かれたノンフィクションだ。
筆者は本人に会ったことがなく、親戚や関わりの深い人に取材を重ねて仕上げたそうだ。描かれるのは波乱に満ちた人生で、とても興味をそそられる内容だった。

だけど、「あれ?」と引っ掛かるものがある。
あまりに心理描写が多いのだ。筆者の推量だと分かるように「だろう」や「かもしれない」が語尾に付いているわけでも、本人に会ってじっくり取材をしたわけでもない。なのに、当事者にしか知り得ないはずの胸の内がドラマチックに描かれている。

——これってルール違反なんじゃないだろうか。
普段は「居酒屋の唐揚げにレモンをかけるかかけないか、いつまでそんな細かいことを言い合ってるんだ」と鼻で笑う私だ。何なら、レモンの角を唐揚げにぶっ刺してくれてもいい。ぐにゃってなるだろうけど。

でも、さすがにこれは気になった。
参考とすべき資料が他にないので、創作と思われる箇所を読み飛ばしながら先に進む。ついに主人公が病に倒れた。ここで、私の暗澹たる気持ちはさらに重さを増す。
主人公が死ぬ間際、その走馬灯が描写されたのだ。

申し訳ないけど、ばしんと大きな音を立てて本を閉じてしまった。
これは、ノンフィクションを名乗っちゃいけない。
この思いを誰かと共有したくなった。こんな時、作家友達に電話をしたなんて展開ならかっこいいのだけど、あいにく私にはそういう人が居ない。そもそも友達がえらく少ない。唯一、共感してくれそうなのが前に登場した「Iさん」だけど、なんか電話をする勇気も出ない。

というわけでAmazonのレビューを見た。絶賛されていた。
私の体は、急に現れた泥沼にずぶずぶと沈んでいった。
著者の経歴を見て、某広告代理店の出身だと知り何かいろんなことがつながった。邪推かもしれないけど。

おそらくその本の著者も、悪魔の声を聞いたんじゃないかと思う。
——誘いに乗るとこうなってしまうのだ。
自らを戒めて、私は原稿の空白を埋めていった。

第9章「双頭」は、まさに貴重なブロックを発見したからこそ書き上げられた。
「大沼」「丸久」の2大デパートが七日町をにぎわした昭和30年代、その両者について研究ノートを作成した小学生が居たのだ。
少年の記述は、売り場の様子や行ってみての感想、2つのデパート前に並んだ自転車の数などにまで及ぶ。県立図書館にも所蔵されていないレアな「ブロック」だ。

見つけたのは偶然だった。
娘の通う小学校で担任の先生と両親との面談が行われることになり、私も都合をつけ、妻と二人で参加することにした。
約束の時間よりやや早く学校に着き、待機所として割り当てられている図書室に案内された。本が並んでいるのを見るともはや癖で、何か参考になりそうなものはないかとうろうろし始める。そこで目に留まったのが、学校史に関わる書籍だった。

中を開いて知った。
この小学校には、「2つのデパート」という研究で賞をもらった子が居る。「子」といっても私よりずっと年上だけども。
研究の内容までは載っていなかったので、後日、教頭先生に事情を話して、そのノートが残っていないか調べてもらった。

きれいに保管されていた。
丁寧な絵や図も挿入されていて、文章からも街にデパートがある喜びが生き生きと伝わってくる。「素晴らしい!」と思わず声が漏れた。

さらに調べてみると、ノートを書かれた方がまだご存命だと分かった。
連絡を取り、お会いする約束をした。
事前に学校から借りたノートを、許可を得て全ページカラーコピーし、ご本人に差し上げようと持参した。

街角の喫茶店で、かつての少年に複写したノートを手渡す。
80歳を過ぎてしばらくが経っていた。
かつての少年は目を細めて笑顔をつくり、じっとノートを見つめる。あまりに止まったままでいるので「もしや」と思ったけど、ちょっとしたら動かれたので大丈夫だった。

ご本人に引用や転載の許しを得て、当時の思い出などについての取材もして別れた。
「またお話を聞かせてください」
社交辞令ではない。
白髪の奥にしまわれた街の記憶を、残らず聞ければどんなにいいかと思った。

家までの道のりは、足が浮いてしまうんじゃないかと驚くくらい歩みがはずんだ。
——すごいブロックを手に入れたぞ。
全身がぞくぞくする。歯にまで鳥肌が立つようだ。1本ぐらついてるけど。

かつて新人賞を目指して小説を書いていた時には得られない興奮だった。
悪魔の声に従って原稿に「創作」を足しても、きっとこの喜びは味わえなかったはずだ。

この瞬間、私は「ノンフィクション執筆」の魅力にすっかりはまり込んでしまった。
実は、それこそが悪魔の仕業だったのかもしれない。

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