プレキシ、謎めいたまま[14]

「リューリューとご飯いくの?」
「いや、……」
「え? なんで?」
 サクラにそう聞かれて、僕はほんとうに本当はリューリューとこれから卒業を祝ってご飯でも食べにいく道義的必要があるのに、どうしてそうしないんだろうという気分になった。僕は僕自身のことがよくわからなかった。今すぐヒルを探すのをやめて、リューリューのところにいくべきである気がした。彼は、僕が近づいてきたのを見るなり、飯行くからニシノもこいよ、と言ってくれるだろう、……あるいは自分から飯に行くなら連れにしてくれと言えばいい。それで全てが元通りになる気がした。で、そうしようと思った。僕はほとんど歩き始めてから、
「サクラちゃんはどうするの?」
 と聞いた。
「え、なにが?」
「だれかとご飯いくの?」
「あ、え? い、……か、ない……?」
 言語が壊れてしまったのか?
「リューリューとご飯いくの?」とサクラはもう一度僕に聞いた。すぐそこの階段からヒルが降りてきた。……

 ヒルは僕とサクラが並んで立って話をしているのを、踊り場を折り返す時にはもう聞いていたに違いなかった。階段を一段ずつ下りながら僕に向けられた眼差しは冷たく、落ち着いていて、澱んでいた。彼女は僕たちを認めたまま歩いてきて、そのまま通り過ぎていった。彼女の背中が遠ざかっていくほど時間の流れが遅くなって行った。彼女が一歩、あるいはほんの少しでも僕から離れていくその少しの間に、その度に、踊り場に姿を現し、僕を冷淡に見つめながら、一段ずつこちらへと降りてくる彼女の姿を少なくとも六十回ずつ僕は思い出した。僕は彼女を追いかけようとした、……。
「ヒル!」とサクラが彼女の背に向かって呼びかけた。「ツカサくんが用があるって、……探してたけど、……」
 ヒルは振り返って、いままさに彼女へと近づこうとしていた僕の姿を認め、半身の姿勢のまましばらく動かなかった。こういういくつもの官能的な衝撃がすっかり僕を駄目にしてしまったので、ヒルが僕のすぐ目の前まで近づいてきても、僕からは望みを遂げるための一切の手立てが失われてしまっていた。
「何?」
「いや、……特になんでもない」
 僕の答えを聞くとヒルは何かを確かめるようにサクラを見た。サクラは、黙ったまま、表情を変えず、ただそこに立っていた。再びヒルが僕を見たとき、今まで見たなかで一番意地悪そうな笑い方をして、彼女は僕に、「卒業おめでとう」と言った。
「ヒルも」
「ニシノくんは、誰かとどこかに行ったりしないの?」
 僕は黙っていた。
「一人ぼっちで、可哀相だね」
 次の瞬間にはヒルはいなくなっていた。僕がヒルについて持っている子供の時代の記憶というべきものの最後が、彼女のこの言葉と、あの意地悪そうな微笑と、それに遡って階段を一段ずつ下りてくる彼女の姿と足音であって、それから先はない。事実、中学時代の同級生とその後会ったとき、ヒルについて聞いてみても、ほとんどのひとは最後に見たのは卒業式の日で、彼女は〈いつの間にかいなくなっていて〉、それきりだと答えた。それから三年後、正確にいうと二年半後つまり三十ヶ月後に、再びヒルと会った時、彼女はもうすっかり大人びていた。一つの時代の終わりに際して彼女が僕に言ったことは、すべて僕のそれまでの過去の正確な描写でもあり、またこれからの未来を予言するものでもあった。僕は一人ぼっちで可哀相なんだと、ヒルに言われたとき、そう思った。どうして自分ではわからなかったのだろう? それに、どうして他の人は僕にそう言ってくれなかったんだろう。サクラがいなければ僕はその場で泣き出していたかもしれない。どちらのほうがよかったのか、僕にはわからない。僕があのとき、ヒルの目の前で泣き出していたら、ヒルはもっと僕を哀れんでくれただろうか? それとも僕を軽蔑しただろうか。

 僕はあの日からずっと、たぶん一日の例外なく、つまり毎日、ヒルのその言葉を思い出した。姿は、その卒業式の(つまりまだ少女の)ヒルの顔形であることもあれば、その後再会したときのずっと大人びたものだったこともあったけれど、彼女の言った言葉は一言一句正確に僕の心のなかで繰り返され、繰り返し僕の心を傷つけた。僕は十秒間ほどその痛みに耐えやりすごすこともあれば、十分間ほどさめざめと静かに涙を流していることもあった。ヒルはたぶん純粋な悪意から僕が一人ぼっちであることを哀れんだ。でも、僕が一人ぼっちであることを哀れんでくれたのは、今まで生きてきてヒルだけだった。

 少女の姿をしたヒルが世界から消滅したあと、その反動で時空が数時間分失われたのだったが、結局僕はリューリュー他顔見知りの友人たちと親連れで料理屋に言って寿司を食べていた。リューリューは寿司を食べるとき醤油をつけない。不思議に思ったので、彼に聞いてみると、彼はその理由を説明できなかった。それでリューリューもしばらく僕の世界から失われてしまった。

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