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気仙沼漁師カレンダー はじまりの話【前編】

海で生きる漁師さんたちにスポットを当てた「気仙沼漁師カレンダー」。その発案者が気仙沼つばき会の斉藤和枝さんと小野寺紀子さんです。いつ、どんなことをきっかけに、この稀有なカレンダーが誕生したのかお話を伺ってみました。
おふたりが語る、まちと漁師さんとの関係、震災のときのこと、そしてカレンダーに託した思い。読んでいただけたら幸いです。




斉藤和枝さん(左)と小野寺紀子さん(中央)


気仙沼の漁師さんのすごさを伝えたい!


― 震災後、気仙沼に誕生した漁師カレンダーですが、そもそもいつどこでこのアイデアが生まれたんですか?

和枝 
最初に話が出たのは、震災の翌年の2012年、長野に向かう新幹線の中なんですよ。私と紀子さんと、間に当時ほぼ日にいたサユミちゃんもいたよね。

紀子 
そうそう。一ノ関から長野までの長い道中、「漁師さんが主役のカレンダーあったらいいんじゃない」っていう話でなんか、もうもうと盛り上がったんですよ。震災をきっかけに、気仙沼を発信したいという思いがあって、やっぱりそれには漁師さんだ、と。漁師さんをかっこよく見せるには、カレンダーにしたらいいんじゃないかと話し始めたら、ものすごく盛り上がって。

和枝
もう夢中でカレンダーの話をしてて、途中の記憶がないんですよ(笑)。一ノ関から長野まで3時間以上かかるのに、いつの間にか大宮で乗り換えていて、ふと窓を見たらあたりは雪をかぶった長野の山々で!
カツオ3本持ったら筋肉がここに出るからかっこいいに違いない!とか、気仙沼、気仙沼、漁師、筋肉、って、そんなことばっかり私たちワーワーと話して、周りの人たちはそうとううるさかったんでないかな(笑)。

― 目に浮かびます(笑)。「気仙沼を発信したい。それにはやっぱり漁師だ」という思いを抱いたのは、やはりおふたりとも漁師さんが身近な存在だからですよね。

和枝
背景にはもちろん、私たちの生まれ育った暮らしのベースがあるんです。私が生まれた家は、漁船がいっぱい来る船の宿というか、廻船問屋をやっていたんです。ずっと漁師さんと一緒に私たちの暮らしが回っていくような家で育ってきました。
紀子さんも紀子さんで、遠洋漁業に必要な漁具資材や餌を積んだりしている会社なので、漁師さんへの思いは震災前からずっと持っていて。

紀子 
やっぱり気仙沼って、漁船あってのまちだと思うんですよ。船が入らないと気仙沼の経済も成り立たないし。でもいちばん重要なのは、どんなに立派な船があっても、立派な魚市場があっても、その船に乗ってくれる漁師さんたちがいなかったら、魚は獲れないし、水揚げもできない、水産加工もできないということで。
一次産業の生産者って大変じゃないですか。遠洋漁業の人は命懸けで魚を獲ってきてくれているし、沿岸漁業の漁師さんも、天候や自然環境に左右されながら、いつもすごいリスクがある中で牡蠣とかワカメとかを育ててくれていて。この人たちは、もっともっと尊敬されるべきなんじゃないかっていうふうに思っていて。
で、そうするにはやっぱり、国内と世界に発信だ!と思って。

和枝
長野に向かう新幹線で、気仙沼の漁師さんをカレンダーで世界発信すっぺ!って話になって。それにはもう最高の、一流のものを作ろうと盛り上がったんです。


失われたまちで見た希望の光

― アイデアが生まれたのは震災の翌年、2012年なんですね。やはり震災での経験が影響しているんでしょうか?

紀子
そうですね。それもこれもやっぱり被災した時にいろいろ感じたことがあって。2011年の3月11日の夜、私は魚市場の屋上で一晩過ごしたんですよ。あの夜、津波で流出した重油に火がついて、気仙沼湾は一面火の海で。夜が明けて、ようやく周りの様子が見渡せるようになったら、もうね、すべてが真っ黒。

和枝
陸も海も真っ黒だったよね。気仙沼は、昔から安全な港と言われていて、岸壁にはいつも日本各地の漁船がズラリと並んでいるんだけれど、その船たちが、火災で焼けて全部真っ黒になってしまったんです。安全だと信じて預けてもらっていたのに、こんなに黒くなってしまった、って思って…。高台からそれを見て悲しくて。黒焦げになった船がもう痛々しいし、悲しいし、申し訳ないしで、もういたたまれなくて。

紀子
市場の付近は全部被災してて。ああ、もう気仙沼の経済の90%は終わったなって思ったんですよ。もう気仙沼の経済は終わったって。でもね、何日か経った時にふと、「私たちにはマグロ船がいる。沖で働いてくれている船がいる」って思ったんです。
遠洋漁船は一隻で何億という金額を稼ぐ、言ってしまえば洋上の工場みたいなもので、その船が沖にいるということが、本当に心の支えだったというか。気仙沼のまちの経済が90%終わったと思っても、「沖には経済を生み出す漁師さんたちがいる!」ということに気づいたとき、まだまだ気仙沼は大丈夫だって信じることができてたんです。

和枝
あの時、私は私で紀子さんと同じような思いを抱いていたんですよ。
私ね、震災から3日後に、うちの工場のあった場所に行ったんです。高台から見て家も工場も流されているだろうなと分かっていたけど、自分の目で確かめたくて。もうあたり全部が真っ黒で、泥とガレキだらけの中、足場を確認しながら普通に行けば1時間もかからない道のりを半日かけて歩いて行ったけど、やっぱり工場は全部流されて、基礎しか残っていなくて。それを見て、ひとしきり泣いて。「もう、しょうがないよね」って自分に言い聞かせて。
そしたらね、帰り道、真っ黒焦げの船が並ぶ港に、真っ白い船が、帰ってきたの。無傷の真っ白い漁船が…。

紀子
そう!地震の直前に出航した漁船が、気仙沼を心配して戻ってきてくれたんですよね。

和枝
その時、空は真っ青に晴れていて。真っ黒な船が並ぶ中、真っ白い船が港に入ってきて。もう、それを見た時の気持ちと言ったら……いま、思い出しただけでも涙が出そうになるけど。あの時はもうほんと、「うわぁ、気仙沼、船あるっちゃ!」って思ったの。言葉でそう思ったというよりも、「あ!いた!」って感じ。「あ!元気だ!いた!いたよ!」「経済活動できる人がいた!」って。
光が来た!って感じがしたんです。もう本当に、気仙沼は、漁師さんにスターターのスイッチを入れてもらうしかないって。腹の底からそんな思いを抱いて。

紀子
船もまた、ほんと、真っ白できれいだったの。船体を洗って出たばっかりだから。被災して食べるものがないだろうからって心配して戻ってきてくれて、出航するために積んでいた水や食料を全部降ろしてくれて。
あの頃は、船が無事に港に帰ってくるのも、いちかばちかだったんですよ。海の中には流された家とかがあって船底を傷つけるリスクを冒して、大変なことだったと思うんです。
でもね、ほんとうにきれいだった。船の白がきれいだなんて思ったことなかったけど、黒い世界の中で、ほんとうにきれいで。

和枝
きれいだったねー。カモメがピューっと飛んで、真っ青な空で、白い船が入ってきて。
震災の時のそういう思いがずーっと私も紀子さんもそれぞれお腹の中にあって。翌年の長野に向かう新幹線の中で、ふたりで話し合った時に、やっぱり漁師さんだ!と盛り上がって。もっと漁師さんを発信して、みんなで頑張ろうって。



漁師という名のスーパーヒーロー

― 震災直後、漁船と漁師さんに心を支えてもらった思いが、漁師さんを発信したいというアイデアに繋がったんですね。

和枝
もっと漁師さんを大切にしたい。もっと尊敬されてもいいよねって。
たとえばね、漁師さんの中の最高峰といえば「船頭さん」なんですよ。漁をする場所、タイミングなど船のすべてを取り仕切る立場で、すごく覚悟のいる仕事なんです。頭がよくなきゃできないし、何より胆力がある人でなければ務まらない。でも、学歴がなくてもなれるせいか、一般的には「魚を獲ってくる人」という認識止まりなんです。そうした見え方をなんとか変えたくてね。だって、ものすごい過酷な状況のなかで魚を獲ってきてくれて、その行為があるから、私たちの暮らしであれ、産業であれ、経済であれ、もろもろが始まるの。

紀子
そう「胆力」!腹にグッと覚悟があるというか。人間力があって。本当に素晴らしい魅力的な人が多いの。そういう人たちが気仙沼の財産だし誇りだし、他にはないものなんだと。

和枝
海の上で生活する漁師さんって、何か困ったことがあったら自分の知恵と知識や経験でなんとかするんですよね。震災で突然、水も食料も、トイレもお風呂も何もかも無くなってしまったとき、私たちは茫然とするばかりだった。そんなときに、漁師さんたちはなんとかするんですよ。漁師さん出身の人って、あるもので工夫する。見事なロープワークで避難所の仕切りを作ってくれたり。

紀子
大島で断水が続き、みんなが困っているときに、漁師さんが古井戸の水を汲むのに車のファンベルトとかモーターで工夫して汲み上げたという話もありますよね。ふつうはバケツに紐をくくりつけるくらいしか思い浮かばないですけど、やっぱり漁師さんは違う!

和枝
しびれるような経験値がいっぱいあって、素の人間としての生きる力に溢れているんです。それが被災直後の混沌とした状況の中で、次々とご披露されたんです。

紀子
考えてみれば、足りないものがあってもどこかへ買いに行くこともできない船の上で生活しながら、地球の裏側まで目に見えないものを獲りに行く人たちですからね。すごいよね。
海で生きる気力、度胸、覚悟。そして、人間力。なんかね、気仙沼の漁師さんたちはそういうものを持っている人たちが多いの。漁師さんたちは間違いなく、気仙沼のスーパーヒーロー!それをもっとみんなに分かって欲しくて。

和枝
震災後、まだ大変な中、何をおいても大切なのは、漁師さんが動き出すことだし、敬意を持ってそれを応援することが、私たちにできることなんじゃないかって。そういう思いで、やっぺってなったんです。


後世の希望になるためにも10年限定!


― 「気仙沼漁師カレンダー」は、日本を代表する写真家が撮影し、最初から10年限定と決めていたというのも特徴的ですよね。

紀子 
最初から話していたんです。漁師さんたちを世界に発信するには、最高のものを作ろうと。そのためには、一流の写真家に撮ってもらおうと。10年限定というのは、その年月を自分たちの節目にしたかったから。

和枝
震災の復興には10年はかかるって、あの時聞いてたんです。阪神・淡路大震災のときのことを考えても、2年や3年で生活が元に戻るものではないとは思って。だからこそ、震災から10年間を撮りためることで、あとからその年月を振り返ることができるはずだって思って。
それは私たち自身だけではなく、50年後、100年後にこのカレンダーを見た人たちが「震災からすぐのときはみんなこんな表情していたんだ」と、当時のことを慮ることができるんじゃないかって。あの時気仙沼は壊滅的だったのに、海に向かう人たちがこういう顔しているよって。漁師さんの顔を見たら、いくらかでも勇気が出るものになるんじゃないかって。
そして、将来、また何かしらの災害や困難が起こったときに、「気仙沼の人たちも10年頑張ったんだから、自分たちも10年頑張ってみっぺ」って勇気や希望につなげてもらえるんじゃないかって…。だから10年。

紀子
そう! 結局は10年以上かかったんだけどね(笑)



気仙沼漁師カレンダー、10年の道のりについては後編で。
ぜひお読みください!



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