見出し画像

私の夢想-母の着物

それは朝のラジオから、女性アナウンサーの優しく落ち着いた口調で紹介された投稿の1つでした。

80歳をとうにすぎた私の母は、今施設に入っています。先日、私が会いに行くと、「いいねぇ、その服、自分で作ったの?」、と母。「あぁ、これ。ごめんなさい、お母さんが大切にしてたあの大島。もう着れなくなったから洋装に手直ししたの」、と私。「あぁ、父さんが買ってくれたあの着物。いいのよ、まだ着てくれてありがとう」。私はお気に入りだったあの着物が、時にはっきりしなくなった母の記憶の底に、今も鮮明に残っているのを感じました。「ほんと、いい服ねぇ」。母は、私の方を見て何度も繰り返しました。

スロージョグをしながら耳を傾けていた私は、その後1時間、さらに1年あまり、母から娘に受け継がれた着物の物語を夢想することになりました。

母の着物

 小さい頃の父の記憶といえば、質素な夕食をあてにお酒を飲んでいる姿です。でも、決して酒癖が悪いわけではなく、機嫌の良いときには、私と弟に面白くない冗談を飛ばす普通の父でした。しかし、気弱な性格のせいか、仕事がうまくいっている様子はなく、時に稼ぎが少ないと母に小言を言われ、いつも小さくなっているように見える父でした。

 母は針仕事が得意で、近所の洋装店から仕事をもらい家計を助けていました。話上手の母は、自分から仕事を取りにいったりするような、しっかり者でした。母と父の睦まじい姿はほとんど思い出すことができません。

 私が中学に上がった年の暮、突然、父が母に着物を買ってやると言い出しました。私の入学式の朝、母が「着物で行ってあげればねぇ」と漏らしたことを覚えていたようでした。少し多めに出たボーナスで、頭金が用意できると考えたのです。父が得意げに話したとたん、母は不機嫌になりました。「うちにそんなぜいたくする余裕はない」。母の言う通りでした。中学生になっていた私は、我が家の状況を少し理解していました。父は、また小さくなりました。

 私の中学卒業が迫った秋の夕べ、母が父に言いました、「いい着物見つけたの、買ってくれる。」。母は知り合いを通じて大島の古着をみつけ、自分でお直しするからと、父に話したのでした。部屋の隅でテレビを見ていた父は振り向きもせず、しかしすぐさま「あぁ、いいよ」と小さく返しました。翌春、着物姿の母は体育館の隅に誇らしげに立っていました。

 もうすぐ定年を迎えようという頃、父は家族に看取られ、名もない生涯を終えました。私の結婚式に父の姿はありませんでしたが、ささやかな宴席には母が、あの着物といっしょに座っていました。私は母となり、何度かあの大島に袖を通すことができました。その母も、今では施設で余生を、家族の想い出とともに、、、

着物ひとつに込められた、母娘の気持ち、人生、、、
物に込められた思いは、時間を超えて、物を通じてそれぞれの人に語りかけるのですね。

 アナウンサーは多くを語らず、聴き手に委ねるように紹介を終えました。

 予定より少し距離を延ばしたスロージョグを終えて、大島(風?)の質実な着物が見えたように感じました。いつかあの着物の物語を書いてみたいという衝動を感じつつも、もう少し大切にしたい思いで夢想を続けていましたが、ようやく落ち着く形で沈殿してきたので、短く書いてみることにしました。アル中・DVの父、夜逃げして残った着物では、母娘の美しいやりとりにそぐわないことでしょう。

 最後に、素敵なお話の投稿者と、心を揺らすアナウンサーの語りに感謝、感謝。(ラジオ放送自体は実話、投稿・語りの内容は記憶上の事実)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?