4時限目

 「今日はちょっと面白いものを持ってきました」
4時限目、物理の時間。チャイムと同時に教室に入ってきた先生は、始業の挨拶の後、嬉しそうにそう言った。彼はたまにこうやって実験器具や身近な道具を持ってきては授業中に実演してみせる。多くの場合、すごく面白いということもないのだが、やはり教科書を読むだけの授業よりはずっと生徒の興味を引くことができるのだった。
「光は波動と粒子の両方の性質を持ってる、って話は前回したね」
先生は高らかに音を立てて「波動」「粒子」と黒板に書き付けた。
「今からするのは波としての光の話なんだけど、みんなちょっと自分の目に入ってくる光を想像してみて?」
そういうと先生は胸ポケットからペンを取り出し、眉間を指すように顔の前にかざした。何人かの生徒が先生に倣って持っていたペンを顔の前に持ち上げた。
「さあ、一口に波って言ったけど、こうやって向かってくる光はどういう向きに振動してるでしょーか?はい、小森さん」
小森さんの席は僕の隣、廊下側の端の一番後ろである。席が席のため先生に当てられることも少ない彼女は、よく授業そっちのけでぼんやり考え事をしたり、なにやら一人遊びに夢中になっていたりする。授業中、そんな彼女の様子をこっそりと窺うのが僕の密かな楽しみでもあった。こっそり、とは言ったものの彼女も僕に見られるていることは百も承知で、僕の視線を気にする様子も不快に思うようなそぶりもなく、たまに目が合うとヒラヒラと手を振ったりすらするのだった。
 今、彼女は机に覆いかぶさるような姿勢で、ノートになにやら熱心に書き付けていた。机の上に垂れて広がった長い髪に隠れ、何を書いているかまでは分からない。書き物に集中するあまり、先生に呼ばれた事にも気づいていないらしい。僕が手を伸ばして机の端を軽く叩くと、びくりと跳ねるように顔をあげてこちらを見た。顔にかかった髪を整えながら驚いたような表情でこちらを見ている彼女に先生の方を指し示してやると、やっと状況を理解してくれた。
「あー、すみません、なんでしたっけ?」
彼女はいかにもバツが悪そうに苦笑いしながら聞いた。机の上に置かれたノートには何やら見慣れない文字らしき線がのたくっている。そういえば、先日美術館の企画展示で浮世絵師の手記を見てから、変体仮名の練習をしているとか言っていた気がする。
「こうやって飛んできた光はどういう向きに振動してるか?って」
先生は光線に見立てたペンを、小森さんを指すようにゆっくりと動かした。
「あー、えー?こう、ですか?」
小森さんはおずおずと指を上下させた。
「うん、それも正解。素晴らしい」
ほっと一息ついた後何気なく周りを見回した小森さんと目が合い、僕と彼女は苦笑いを交わした。
「結局、このペンに直角に交わるあらゆる方向に振動する光があるわけです。こういう向きの波もあればこういうのもこういうのも」
先生はそう言いながら黒板に様々な向きの直線を引き、その両端にやじりを書き足していった。
「さて、ここまで話したところで、今日持ってきたものですよ」
先生は教卓の上から厚紙でできたスリーブを2つ拾い上げ、中身を取り出した。彼女は片肘をついて軽く握った手を顎に当てた姿勢で、眠そうな目で先生の方を眺めていた。先程当てられたおかげで変体仮名の練習こそ止めたものの、到底授業に集中しているようには見えなかった。
 それは、ほんのりと暗い色をした2枚のレンズだった。
「はい、いわゆる偏光レンズですね」
先生は取り出したうちの一方のレンズを胸の前に掲げながら説明を始めた。
「このレンズはですね、特定の向きで振動してる光しか通さない性質があります」
さっき自分で描いた矢印のうちの一つを右手で指した。
「するとどうなるか?はい、宮中さん」
「え、えー……?」
「光がワーっとレンズに入ってきますね?」
先生は空いている左手の指を3本、レンズを指す向きに立ててゆっくりスライドさせた。
「でもそのうちこのレンズを通り抜けられるのは特定の角度の波を持ってる一部の光だけ」
レンズを通り過ぎたところで、人差し指以外の指を折り曲げた。
「すると?」
「暗くなる……?」
「素晴らしい。このレンズ、実際にサングラスに使われてたりもします。さて、ここに偏光レンズが2枚ありますね」
先生は両手にレンズを持ち、胸の前で2枚のレンズを重ねた。
「こうやって重ねて、で、片方のレンズを回転させると……」
先生が右手を動かしていくにつれ、少しずつレンズの向こう、先生のワイシャツの白色がくすんでいき、ついには真っ暗になった。教室のところどころから感嘆の声が小さく上がった。咄嗟に僕は左をちらりと見やった。小森さんがどんな反応を示すのかが気になったのだ。彼女は、微動だにせず、眠そうな表情で片肘をついた姿勢のまま座っていた。
「ある角度で、1枚目のレンズを無事に通り抜けた光が2枚目のレンズを通り抜けることができなくなり、真っ暗になっちゃうわけです」
レンズの講義をする先生の声にどことなく得意げな調子が混じった。しばらく小森さんを見ていると、彼女の表情に変化が現れ始めた。眠そうに細められた目がかすかに見開かれ、口がゆっくりと開いた。その後、僕の方をちらりと見遣ると、しばらく彼女にしては珍しい険しい表情で僕を見つめた後、何か納得したように眉根を緩めて軽く頷いた。彼女の意味ありげな反応に戸惑っている僕の様子がおかしかったのか、彼女はフッと笑って視線を前に戻した。
「このレンズ君達に渡しますんで、ちょっと授業聞きながら触ってみてくださいな。はい、あ、割らないでね」
そう言うと先生は、窓側の最前列に座る三宅にレンズを渡した。
「うん、じゃ、授業始めますか」
先生の授業をよそに、三宅に手渡されたレンズは、生徒達の手から手へと渡っていった。素直にレンズを2枚重ねて覗き込む人、1枚1枚を穴が開くほど観察する人、ろくに見ずにすぐに後ろに回す人。劇的に面白いわけではないことなど承知の上で、誰もがささやかなイベントにどこか浮き足立ちながら授業を受けていた。だが、僕は、小森さんの先ほどの反応が気になってそれどころではなかった。
 「はい」
前の席の女子が上体を捻り、こちらを振り向いてレンズを差し出してきた。小森さんのことで頭がいっぱいだった僕は、なんだか気恥ずかしくなり、慌ててレンズをひったくるように受け取り、彼女から目をそらした。視界から外れる一瞬、彼女の驚いた表情が見えた。なんだか余裕がない。光の性質に思いを馳せるような気分でもなかったが、小森さんを意識して若干パニックに陥っている心を落ち着けるため、僕はたどたどしい手つきでレンズをいじり始めた。
 まずは手にとってじっくり眺めてみる。なんの変哲も無い、少し色のついたただのレンズである。次にレンズを重ね合わせ、手をひねってレンズの角度を調整してみた。先生が実演した通り、角度によってレンズの向こうの景色がだんだんと暗くなり、ある角度で真っ暗になるのが見て取れた。指先が震える。喉が渇く。右のこめかみがチリチリする。耐えきれなくなって目だけを右に向けてそっと小森さんの様子を窺った。
 いつの間にか、小森さんは頬杖をついてこちらをじいっと見つめていた。僕はにわかに狼狽して片方のレンズを取り落としてしまった。レンズは、机でバウンドしてかちゃん、と音を立てた後、床にまっすぐ落ちていった。
「割るなよー?」
黒板に式を書き付ける手を止めることなく、先生が言った。
 咄嗟にリノリウムの床に落ちたレンズに手を伸ばした。見たところ割れた様子はない。レンズに指が触れようとした瞬間、ぬっと視界の上の方から腕が伸びてきた。視線を上げると、果たして小森さんと目が合った。そのまま、2人ともしばらく動かなかった。
 先に動いたのは小森さんだった。彼女はレンズをサッと拾って僕の手に握らせた後、何故かレンズを指差して、右目をつぶり、輪にした指を自分の左目に当ててみせた。
 さっさと席に座り直し、こちらを見ながら悪戯っぽい笑みを浮かべている彼女から目を離せないまま、訳もわからず席に戻った僕は、彼女がして見せた通りにレンズを目に当てた。
 小森さんの席に、制服を着た真っ黒な人影が座っていた。
「うわっ」
 驚きのあまりつい声が漏れてしまった。幸い周りには気づかれなかったらしい。慌ててレンズを外すと、黒い人影は消え、いっそう笑みを強く浮かべた小森さんが元通りに座っていた。
 再び輪にした指を目に当てた彼女が仕草で促すままに目にレンズを当て直し、今度はそのレンズを回転させていった。果たして、初め真っ黒だったその人影は、レンズを回転させるにつれて少しずつ細部をあらわにし、最後にはいつもの小森さんになったのだった。呆気に取られている僕の耳元に、ぐいと身を乗り出してきた彼女のささやきが聞こえた。
「びっくりしたでしょ」
僕は馬鹿みたいに口をぽかんと開けていた。
 「こら、そこ」
先生の気のない注意が突然教室に響き、僕は自分が教室にいることを思い出した。
「すみませーん」
軽い調子で返事をして席に座り直した彼女は、僕の方を見ながら左の人差し指を口元に当てて、ぱちりとウィンクしたのだった。

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