色のバリアフリー 2/9朝日新聞記事

”学校でできる「色のバリアフリー」って?”

2/9(火)の朝日新聞朝刊に、大きい記事が出た。

色覚異常の話題は、ごくたまーーーーに取り扱われる。

このように一流大新聞で取り上げてくれるのはありがたい。


記事では九州大の学内案内図を色覚バリアフリーにしたことを紹介し、色覚異常についての基本的解説をし、学校での取り組みを紹介している。

近頃は「色覚に特性がある人」という言い方をするらしい。たしかに、「異常」よりはマイルドでいいのかな。


しかし、色のバリアフリーは遅々として進まない。ほんとうに進まない。たまーーーにメディアがこのようにとりあげてくれるが、見やすい案内図を作ったことがわざわざこのようなニュース?になってしまう、まだそんな社会だ。


なぜだろう。男性は20人に一人、女性は500人に一人(私もその一人)、かなりの確率なんだが。


その理由のひとつは、

この記事を見て、「ああ、自分もそうだった」と思ったのだが、自分が色覚異常であることを日ごろは忘れているからだ。恐らくそういう人が多いからだろうか?

生まれた時からのものだし、治療できるものでもないし、不便さと長年つきあううちにすっかり慣れていて、気にしなくなってしまう。


学校での検査がなくなったことで「ないこと」みたいな扱いになっているのでは。差別への配慮なのかもしれないが、結果的に「臭いものに蓋」状態になってしまっていないか?

当事者が身近にいなければ全く知らない遠い世界の話だし、当事者は身近な人にも言いたがらない。学校検査がないことにより存在すら知らない人だっているかもしれない。


特に言う機会がないし、色の話題でエーっと言われたとき(私が変な発言をしたらしい時)はカミングアウトするチャンスではあるのだが、そのときの好奇の目や同情の目(すごい難病だと思うのだろう)がつらくて、だんだんごまかすようになっていく。


パターン1「えーっ、じゃ、これ何色に見える?」と目を輝かせて言われると、悪気は全くないと分かっていても、けっこうつらかった。なんと答えればいいのだろう。ぜんぜんちがう色を答えるのを聞いて「わー、かわいそう!そんな人いるんだ!」と驚嘆したいのだろうか?都市伝説とか珍獣みたいに。


パターン2「えっ…、そうなんだ、かわいそうだね…」と言われるのもつらかった。「かわいそう」という言葉は、自分でもかわいそうだと思っているときに言われると気持ちがいいが、自分はなんともないことについて人から「かわいそう」と言われるのは不快なものだということがよく分かりました。

そんなことが何度かあって、気安く言わないようになった。繰り返すが、相手に悪意が全くないことはよく分かっている。


小学生のころはつらいことがたくさんあったのをよく覚えている(黒板、白地図、さらし者になりながらの検査…当事者の人は思い出してみよう!)

歳を重ねるうちにだんだん自然に訓練されて、見分けられる範囲が増えてくる。明度や彩度を判断の補助にできるようになるし、明るいところで見る、何気なく人に聞く、などのスキルを身に付けていくからだ。


・生まれつきのものである

・遺伝性の特性である

・治すことは不可能である

これらは、私でいうと、背が低いことも同じ要素だ。いつもクラスの背の順ベスト3のどっかにいた。

電車のつり革の種類によっては手が届かない、満員だと呼吸困難や酸欠になる、などの不便が日常的にある。でも仕方なくあきらめている。だって変えようがないから。


色覚異常の人の大多数がそんな感覚なのかもしれないと想像している。

路線図がみづらいのも、グラフがよく見えないことがあるのも、服を選ぶときに悩むのも、日常的すぎて、変えて!って声をあげることも思いつかないし、思ったことがあっても忘れてしまった。普段は色覚異常という言葉も忘れている。


me-too運動とかLGBTの運動みたいに、みんなでせーので声をあげれば盛り上がったりするのかな?せっかくバリアフリー&ユニバーサルデザイン必須の世の中になったんだから、そんなことになったら楽しいな。当たり前すぎて気にしなくなってるけど、実現していけばストレスが減りそうだし、何より次の世代の子供たちが、色の見え方が違うということで困る、つらい、怖い、自分は異常だ、恥ずかしい、悔しい、ばれないようにしなきゃいけない…そんな思いをしなくて済む社会の方がいい。



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