いかなる不滅の手、あるいは目が
6月4日だった。親愛なる友人より「恩寵と魅惑にかがやく日々でありますように」とのまばゆい祈りの言葉に添えて、ヴァレリーの詩集『魅惑』より「暁」の一連を贈られた。
わたしは不可視の泉水の
その透明に歩みよる
水がその胸に抱いている
わたしの〈希望〉の泳ぐところ
J’approche la transparence
De l’invisible bassin
Où nage mon Espérance
Que l’eau porte par le sein.
水がその胸に抱いているわたしの〈希望〉について考える。私はもう知っている。〈希望〉は私の胸の内にはないのだと。〈希望〉は私が水に覗き込むものでしかないのだと。
今年この日を過ごした場所は森ではなかったが、それでよかった。私の森だったあの森にもう私が立ち入ることはないだろう。
昨年と同じ赤いドレスを着ていた。今のヴァージョンの私は28歳の半ばごろに一度完成しており、まだ引き続き現行の版で追求していきたいことがある。つまり、光についてもう少し考えていたいのだ。やや仰々しくもあり、また、「光」が意味するところはあの時とは大きく変わってしまったけれど。
神秘主義からはとっくに抜け出した。光のことを考える時には同時に影のことを考えずにはいられない。影のつくる深い闇のことを。あるいは、光に音はなく、影にしか音が存在しえないことを。すべての色彩が光の一部でしかないことを。
あの瞬間光に包まれた私がじわじわと影にのまれつつある。宿命的であるのか、たんなる堕落であるのか、おおよそ検討はついているが、結論はまだ下せまい。
恩寵と魅惑。
今となっては、はたして恩寵を受ける権利など私にあるのだろうか。
29歳における僥倖として、これまでの人生でもっとも多くお褒めに与った。いただいた賛辞のすべてが丁寧に言葉を選んで重ねてくださったもので、あれらがこれから先ずっとずっと私を生かしてくれるだろうと信じられる。その多くは文章と、文章から読み取れる、世界と対峙する私の態度についての賛辞だった。何より嬉しい。そこに見えるのは私の実際ではないかもしれないが、私の本当ではある。本当を知ってもらえて、認めてもらえて嬉しい。
それなのに、このところどうしても真摯になりきれず、私をとりまく世界が少しおかしくなっていることは無視できまい。このまま歪み続ければ遠からずカタストロフを迎えるだろう。その日の後に私が再び生まれうるかはまったくの未知だ。
崩壊はかならず訪れる。高く頑強な砦を築き、籠城のための備蓄を心がけ、それでもなお全てが破壊し尽くされたとき、再びその土地に種を植えようと思えるかどうかはこれから数年間の私の学びにかかっている。
水の中に〈希望〉があることは知っていても、その〈希望〉の見つけかたを私はまだ知らない。私は〈希望〉を見たことがない。
それを見いだす眼が、掬い上げる手が、終焉よりもわずかに早く私に与えられるといいのだが。
Tyger Tyger, burning bright,
In the forests of the night ;
What immortal hand or eye,
Dare frame thy fearful symmetry?
——William Blake, "Songs of Innocence and of Experience"