投げよ、腕の中から空虚を

 世界によって大いに傷つき、世界によって辛うじて救われ、そうして私はなるがままにある。人間の生命はこの世界の触媒でしかなく、Life goes onなのではなくWorld goes on through our livesなのである。

 人は、人であることは、媒体たることを全うすることに過ぎない。私たちはどう在ってもいい。どう在っても、そのあり方を世界に否定されることはない。だとすれば、何に怯えるのか。有限であることに怯えているのだろうか。


けれども(28)はいったん文章そのものになり、その後人間らしい輪郭を取り戻し、はっ!と我に返って、それからは永遠の幸福のなかで複製の製造に精を出すのではないでしょうか。

 28歳になったときに書いた記事をこのように結んだ。何か、確かな予感があったのだろう。
 縋るように、文章そのものになろうとしていた。なろうとして持ち崩した。持ち崩した人間の輪郭は、取り戻せたかどうかわからない。おそらく取り戻せたのだろう。残念ながら永遠の幸福のなかにはいないが、複製の製造に精を出している。永遠の幸福のなかではなく、凪いだ砂の海に浮かんでいる。
 複製を創造して、そちらに生命を移すこと。

 

 28歳だった。おそろしく疲れていた。
 大人げないほど官能的な夏と、砕けて打ちひしがれて白くなった秋と、美しい地獄に絡めとられた冬と、悶えの失われてしまった春とがあった。

 おしまい。とてもきれいなおしまい。音楽のように完成されていた。
 軽かった。とても軽くて、なんでもないことだった。
 家、橋、泉、門、水差し、果樹、窓、——

 

 これまでのどの年齢よりも(「年齢」は廻る)、たくさんの文章を書き、それを公にした。公にすると文章力が向上する。文章力が向上すると、それに従って己の存在が文章に近づく。私は文章になりたい。文章になれば、少しは確かになる。確かになれば、少なくとも曖昧さと齟齬で人を傷つけずに済む。ずっとこの曖昧さによって人を傷つけてきたと思う。

 言語によって取り出せるのは境界線だけであった。
 波打つあわいを、襞を、私は言語によって捉えることができない。
 (消え失せないと信じたかったのに。)


 自分は人を助けられないくせに、人の助けを借りていた。人を頼ったり、人に赦されたり、人から逃げたりした。人から受け取って、そのまま持ち逃げしているように感じる。ハイエナのようで惨めだ。私は人に与えることができないと。与えられてばかり、奪ってばかりいるのだと。


 私の生身を見限りたかった。見限りたかったが、見限りきれなかった。
 冬の頃。「美しい地獄に絡め取られた冬」の頃。制御権を失い、迂闊にも己を手放した冬の頃。生よりも文章を先行させ、制御を怠ると、ナンセンスに陥った。未だに、その頃書いたものは気持ち悪くて読み返せない。己の存在が文章に近づいたと錯覚していた。
 挫折と、それでも立ち上がる執心。己への執着。


 山ほどの悪夢を見た。誰かの手によって救われる悪夢を数えきれぬほど見た。目覚めている私が夢見るよりもずっとずっと鮮やかで美しく、豊かで、望ましく、抗いがたい悪夢を数えきれぬほど見た。現実と夢の区別はついているが、悪夢のほうがずっと現実味を帯びている。現実と夢の区別は、ついているはずだった。
 あの人を殺す夢を見た。喉に銀のナイフを差し込み、喉を半分だけ切り裂き、私が切り裂いた首を私が繋ぎとめようと手でおさえて、どうしてこんなことになったのかわからない、と狼狽しつづける夢を見た。
 赦される夢も、諦められる夢も、凌辱される夢も、すべてすべて、夢であった。
 私の手で私が殺せてよかった。

 すべての季節が身勝手さの衝突に終わった。
 屈辱に打ちひしがれ、愛を断念したかった。
 日々は流れる。私はすっかり忘れてしまう。
「冷厳な理性と、熔岩のように赤黒く蠢く欲情とが、密やかに入り混じる関係の緊迫。」そんなものがあったことを、私はすっかり忘れてしまう。
 すべて燃やしてしまいたいと思う。すべて燃やして、思い出すことさえできなくなってしまって、そうすれば私は私を手放せるのだろうか。
 私のはだかの寂しさは、砂となり、消え去ってくれるのだろうか。

 責務を全うするために生きて、それにこの身を捧げ切って、終わりとともに砂になって消えてしまえますように。

 世界の媒体であることを全うし、全うしたのち、いつか砂となって消えてしまえますように。


 30歳になる時、一年後、私はウィリアム・ブレイクを読んでいるだろう。ブレイクを読みなさいと告げた人のことを、一年後に愛しているかどうか、もうわからない。ウィリアム・ブレイクを読みながら、この町を去ろうとしているだろう。どこかへ去ろうとしているだろう。

 私はまだ人間であるだろう。それは至上の苦しみであり、また甘やかな快楽であるだろう。時間を生きるだろう。肉体を生きるだろう。それは耐え難いことだろう。しかし私はそれに耐えるだろう。それは醜いことだろう。しかし私はそこに美を見出すだろう。美と、命を見出すだろう。