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日曜日の日記

土曜の夜は三日間に亘る大きな会議を終えてへとへとだった。
私はこの仕事を無事遂げたらもういい、もう十分だ、疲れた、もう死のう、ドイツでドクメンタみて、シチリア島にくだって、イタリアワインで酔っ払って適当な崖から身投げして死のう。と思いつめながら青山の裏路地を歩いてパーティーに向かった。日曜日の青山一丁目には人影がない。

パーティーは、仕事を辞めてフランスに留学する街子の送別会だった。 
東京駅の成城石井で買ったイタリアのロゼスパークリングと韓国料理のキンパという海苔巻きを携えて参上。一刻も早く酔いたくて、持参したロゼは半分以上私が飲んだ。早晩うまい具合に酔っ払って、パーティー用の身体になれてよかった。身体でパーティーした。

いつの間にか眠ってしまったらしく、人の家のソファで目覚める日曜日。昨夜はあんなに大勢の人でごった返していたのに、同じ空間に誰もいない。とても静か。この家もきれいな日光が入る。9時前に起きてきた街子はパジャマ姿で、「めずらしく早く沈んだね」と朝の挨拶。

街子はフランスに行く。彼女の過去と現在のすべてがその行動の選択を可能にしている、その有機的なつながりが、よく見える。
「仕事を辞めてフランスの大学院に行こうか迷っている」と相談を受けた時には、すでに彼女は院試に合格していた。けっこうショックだった。もう決まってるじゃん。それでも背中を押すのが役目だから背中を押した。
ものすごくうらやましい。フランスの大学院。なんだそれ。なんだその選択肢。

朝、ダイニングで水を飲みながら街子とぽそぽそ話す。
しばらく、少なくとも3年間くらい、気軽には会えない。あるいは、これから先街子はもうずっとフランスにいて、特別なときにしか会えない。それを実感したくなくて、どうでもいいような話をする。掛けてあるワンピースが可愛いとか、ああそれ展示会で5万円が3万円になっててつい買っちゃったけど帰宅してさすがに後悔したんだよねとか、上司がきらいだとか、男の人に買ってもらうならエルメスとシャネルどっちがいいかとか(どっちもいやだ)。

しばらくすると街子の彼氏のスガさんが起きてきた。朝の光の中でリラックスしている彼らは存分にいちゃついていた。この人たち、こんなにいい関係性で愛しあってるのに月末には離ればなれになってさよならなんだよな、と思うと変な感じがする。街子のことが大好きなスガさんはきっとすごく泣くんだろうな。
甘やかし上手のスガさんは街子と私に桃を剝いてくれた。人の彼氏が彼女を甘やかすのに便乗して甘やかしてもらうのが好き。うれしい、と話すと、街子は「友カレおいしいの法則」という身も蓋もない理論を解説し始めた。

雑誌でコスメのページを担当している街子に「さすがに持っていけないから」と3kgぶんくらいのコスメをゆずってもらった。化粧品を重量で表現するような無頓着な私にはもったいないような品々。私には顔が一つしかないので、死ぬまでこれでもつ気がする。

街子の蔵書から『彼女は頭が悪いから』を借りた。本を借りておけば、つながりを失わずにいられる気がした。テーマも、私たちにとってかなりアクチュアルな問題だし。
ソファに寝転んで本をめくっていたら、街子が覗き込んできて、「でも、私、『女だから』っていう理由で嫌な思いをしたことがないんだよね。そこは引け目というか、気まずさでさ」という。
私もそうなので、頷く。まあそれも、経験した「嫌な思い」を個人に回収しているだけだと思うけど。街子も私も、「女であるから」ではなく、「ああ、私なめられてるんだなあ」っていうふうに、「私」の問題にしてる。それは傲慢ゆえとも言える。
構造の問題より、構造を乗りこなして圧倒的優位に立てなかった私の能力不足がゆえの問題だこれは、って思っちゃうのは私たちの悪癖かもしれないです。悪癖であり気高さであるかもしれないです。

正午にハグして別れた。ハグ、初めてかも。
「泊まってくれてうれしい」「パーティーの翌朝は、とても寂しいから」と街子が言う。私も、朝に人といられてうれしかった。満ち足りた気持ちの午前中をすごせてうれしかった。ぽそりぽそりと交わす会話がうれしかった。朝の光がうれしかった。何でもないことを、話す相手がいる時間がうれしかった。

フランスに行ってしまう。またフランスに友達をとられた。街子のことが好きだし、最近は以前よりも親しくしていたので、遠く離れてしまうのは辛い。でもフランスに行く理由ができて嬉しい。フランスにはもう一人、親友も暮らしているし。帰り道、好きな人がフランス語を話している動画を眺めた。流暢だ。

私の唯一話せるフランス語は「クロワッサン・シルブプレ」である。もう少し何か覚えてもいいかもしれない。例えば、「休暇をとって友達に会いに来たんだ」とか。

人と過ごせて満ち足りたためか、なんとなく元気で、でもむしょうに切なかった。帰宅。忙しさにかまけて床に放り投げていたものを整頓するのにだらだら1時間くらいかけて、そのあと掃除機とスチーム雑巾機(そういうのがある)をかけて、やっと人間の暮らせる部屋になった。

なんとなく元気だったので、自転車に乗ってどこかに行ける気がした。坂の上の図書館へ借りていた本を返しに行く。ついでにおしゃれパン屋とブックオフに寄った。おしゃれパン屋ではカラフルなタルティーヌを、ブックオフでは志村貴子のBLとカポーティの短編集とその他テキトーな本を何冊か買った。
百合の名手である志村貴子のBLは想定外に凄まじいもので、生々しいもので、人間の性欲が人間と人間の関係に及ぼす影響についてとうとうと考えた。性愛のことはあまりよくわからない。ふりをしている。志村貴子が描いたあまりにもダイレクトな性表現にたじろぐ程度にはわかっている。

街子がフランスに行ってしまうので、私もどこかに行かなければならない気がしてくる。ドクメンタに行ってシチリア島に降って「ドイツ人がイタリアに焦がれたのはよくわかるなあ」とか思いながらワインを飲んで、太るから絶対に食べないことにしているピザをだらだら食べて、海に沈む夕日を眺めて「きれいだな」とか考えているうちに死ぬ気も失せると思う。その程度のことだ、疲労というのは。忘れられる程度のことだ。だから忘れればいいんだ。私たちの発する「死にたい」と「ハワイ行きたい」は同じ意味なのだから。

街子がフランスに行ってしまうので、私もどこかに行きたい気がする。いくつか行けそうな土地をピックアップする。例えばスペインで美術史の修士号をとることとかを考える。けれど、それを達成したあと、それを活かす方法を考えなければならない、そのことがすごくだるくなって、考えるのをやめる。どうして人は、人はというか私は、ステップアップしなければならないのだろう。どうして昨日の私のままでいてはならないのだろう。

一年前、尊敬する人に褒められたとき、照れて、恐縮して、本当に恐縮して、「精進します」と述べたら、「あなたは精進しますとよく言うけれど、精進なんかしなくても、あなたが今あるままで十分に素晴らしいと思っていますよ」と言ってもらった。
あれは何だったのだろう、と今になっても困惑する。愛だったのだろうか。愛だったのだろう。
私はでも、私であるためには、私でなくなり続けることしかできない。