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孤独を手放してはいけないよ

長いこと懸案材料だった仕事をなんとか一つ終え、頰の凍りそうな夜に飯田橋駅を深く深く地下に潜った。
大江戸線へ至るソ連のSFのような回廊を歩いていると音楽を遮って通知音が鳴った。取り出して画面を見るとメッセージが届いている。
「なんか孤独で死にそう」とある。街子からだった。


街子はモード誌の編集部で働いている。
フランス語に堪能で、赤坂でフランス人の女の子と眼鏡屋の男の子と三人で暮らす街子。金色に染めたショートカット。その前は波打つゆたかな栗色をしていた。愛嬌たっぷりの幅広い二重でぎゅっと笑う。小柄。
彼女の休日のほとんどが大勢の人と楽しく過ごす予定で埋まっている。
彼女はあらゆるものを愛している。街子が何かを嫌いだと話すのを聞いたことがない。
お願い事が上手。彼女の引越しには友人たちが山ほど駆り出されていた。
街子は惜しみなく与える。奪わない。街子は奪わずにもらう。奪わずとももらえる。
彼女のいるところだけきらきらと眩しい。

けれどこんなふうに時々、ぽつりと弱音で私をノックすることがあった。
はあいと返事をしてドアを開くと、孤独でふくらんだ街子がわあっとなだれ込んでくる。
私は街子の話す孤独が何であるのか、なんとなくわかる気がしていた。街子も私がそれをわかるとわかっていてノックするのかもしれなかった。

「なんか孤独で死にそう」
「大丈夫?」
「ごめん、孤独だと泣きつく相手がいるくせに、甘えを言いました」
街子はすぐに己を恥じて蓋をするようなことを言う。その蓋は取り上げねばならない。
「街子がどんなに慰めても癒されない孤独を抱えているのはわかるよ」
「わーん、デスクで泣きそうだよお」


学生の頃は顔見知りの先輩で、大人になってから友達になった。
昔からずっと、私は彼女が人に囲まれていることを羨ましく思っていた。親しくなってからも、僻みは拭いきれず、街子を少し遠く見ていた。
私も彼女の魅力を愛し、彼女を囲む一人だった。
時折泣きつかれても、そんな態度は街子の傲慢だと呆れて妬んで、優しくするふりだけしてどこか突き放してきた。きっと言葉の端々に表れていただろう。
あなたはいくらでも頼る人がいて、そんなにたくさんの人に愛されているのに、どうしてそれに満足できず、あまつさえ孤独だなんて。
きっと私は彼女に冷ややかな目を向けていただろう。それでも、街子はなぜか私と親しくしてくれた。


「何かトラブルがあった時、私は悪くないんだって思おうとして、必死に自分について検証するの。そしたらかえって自分の至らなさばかり浮かび上がってくるの」
「それは、あなたの魅力を成している特性たちが、ふとした時に最悪の結合をすると落ち込んでしまうんだろうね」
「魅力なんかない、単なる至らなさと保身だよ」
「魅力だよ。すべての特性は良くも悪くもはたらく」
「……どんな特性?」

甘えが一瞬、喉に引っかかる。こうして街子が素直に褒められようとするところが、ずっと疎ましくて羨ましかった。てんで子どもだったのだ。
今になって、彼女はこういうとき、本当に溺れかけて何か摑むものをと喘いでいるのだとわかる。
わかるようになってよかった。大人になるってのは実にいいことだ。

「自己洞察が深いところ、言語化に秀でていること、観察力が優れているところ、すごく自然に他者を肯定できるところ……」
「そんなの、みんなできることじゃん」
「そうでもないでしょ」
本当にそうでもない。誰にでもできることではない。


街子はいつも、ひたすら自分の話をする。
私はこんな環境にあって、こんな思想をもっていて、その上でこんな出来事があって、自分のこういうバックグラウンドゆえに出来事についてこんなふうに考えて、こういう結論に至って、こういう行動をとったの。
その行動や選択には環境と思考と自身の性向がこのように影響していて、だから自分にとって誤りではないけど、正しいと確信しているのに満足はできなくて、もやもやしているの。どうしよう?
うーん。
街子の選択は間違ってないと思うけど。
でもでもでもね、こうでこうでこんなふうにも感じて、それは私の生育環境がこうで社会がこうで結果こういう価値観にあるからだけど、それを理由にするのは嫌なの。
うーん。
どうしよう?
飲み込むしかないんじゃない?
えー、でもでも。

明瞭な論理と適切な語彙を駆使しながら、延々、彼女自身について語る。
私は半分くらい理解する。そして適当にコメントする。
それでも納得のいかない様子で、街子はまたおびただしい言葉を重ねる。
街子の話に相槌をうっているうちに夜は更けて、解散の時間がくる。

えー。帰っちゃうの。泊まっていきなよお。
ごめんね、なんだか疲れちゃった。明日も早いし。
えー。やだやだ。帰らないで。
ごめんね。
うん、ううん、仕方ないね。ゆっくり休んで。ありがとね、愛してるよ。
こちらこそありがとうね。おやすみ。

今日も何も解決してあげられなかったなあと少し疲れて家路につく。

彼女はただ愚痴を言いたいわけではなく、状況の改善を求めて助言を乞う。
建設的だ。それでも私はいつもいささか疲れてしまう。
ずるい、と思っていた。
街子の精緻で詳細な自己分析に始終付き合い、彼女に私を投げかける時間が一切とれなかったことに、一方通行の虚しさを抱く。いやな表現をとれば、搾取されているように感じてもやもやする。そしてそういう自分のエゴの醜さを扱いあぐねて疲弊してしまうのだった。

彼女の一方的で洪水のような吐露は、永遠に終わらない演説は、あまりによく完成されていた。聞き手に私を必要としていないと思わせるほど完結していた。台本があるかのように流暢だった。
私は彼女にボールを跳ね返す壁くらいにしか思われていないのだろうな。
彼女は主役、私はせりふのないその他大勢。
そんなみっともない卑下に取り憑かれた。きっと寂しかったからだ。


「私と近しい人はみんな、今あげてくれたことはできてるもん」
「できる・できないで言えばそりゃあね。度合いの問題だよ。街子は人よりずっとそれができてしまう。特に思考において言語の支配が徹底してるでしょ。たぶん、私の5倍くらい」

相手を差し置いて延々語り続けられるほどに、街子の言語能力はずば抜けていた。

「褒められた、嬉しい」
「思考は言語によるものだけど、判断は言語を介さないから。みんな普通は判断だけで生きてるの。いささか暴論だけど」
「うーん、判断の鈍さに劣等感を感じているのかなあ」
「街子の周り、カメラマンとか、スタイリストとか、モデルとかって、判断が仕事だもんね」
「そうなのかなあ、うーん」

人にできることが自分にできなくて落ち込む気持ちはよくわかる。街子はちょっと落ち込みすぎだけれど。

「ね、ね、さっき言ってた“特性の最悪の結合”って、つまり?」
「つまり、自己洞察ができすぎて、他者のいいところがよく見えて、そこで自己評価が不当に低いとそりゃあ落ち込むよね」

どうしてこの人は、能力にも環境にもこんなにも恵まれているのに、不満を抱え続けているんだろう。なんで自信がないんだろう。
街子が私に彼女の問題をぶつけてくるたびに不思議に思っていた。嫉妬が私を支配しているときは、疎ましくすら思った。可愛くて賢くて朗らかで、誰にでも好かれる、街子のくせに。


「うーん。よく考えてみたんだけど、さっきの話」
「判断力への劣等感?」
「それもだし、自己評価のこと」
「うん」
「やっぱ、ちょっと違うかも。自己評価が低いというより、自分への期待値が高いんだと思うの。自分が好きで、自信はかなりあるもん」

思わずたじろいだ。いつも泣きついてくる友人に対して使っている慰めのテンプレートが無効化されてしまったせいだ。

「あなたはこんなにも素晴らしいのだから自信を持って」と人を諭すのは、簡単で、かつ効果的だ。
嘘じゃないからいくらでも強く言える。いくらでも褒めそやせる。人を褒めるのは気持ちいいし、褒められることで誰もが癒される。
自信がない人に自信の材料を与えるのは気分のいいことだった。お手軽だった。簡単で効果的だった。
当然、街子にも使える手法のつもりだった。

つもりだったが、使えなかった。びっくりした。すごくびっくりした。

でも、このテンプレートが無効化されたこの瞬間、私は本当の意味で彼女のいう孤独の意味がわかった気がした。

わかるよ、と思った。わかる。
「自分への期待値が高い」ことの厄介さが。
自分はもっとできると確信して、できないのは怠慢だと叱責する。叱責することで、伸びる余地がある状況に安堵するのだ。ストイシズムなんかではない。ただの悪趣味である。
その厄介さを、私もよーく知っている。身にしみてわかるよ。

街子は見抜いていたのだ。この自惚れを共有できるのは、私しかいないということを。私もまた彼女のように己を信じて思い上がっているのだと。

「ああ、それはもう、……孤独は避けられないね」

こういったうぬぼれこそが、孤独につながるのだ。
私はようやく彼女の孤独を理解した。自惚れた途端に、人は孤独になる。


寂しいだろうか。孤独であることが。
だけど、それはなんと高貴な孤独だろう。
自惚れて、どこまでも自分と付き合い続けることは、誰にも支えさせずにひたすらに進み続けることは、なんと気高い孤独だろう。
自惚れるだけのものを磨いてきた彼女は、どこまでも気高い。

「だから、自信はあるけど、落ち込むときにものすごく落ち込む」
「そして、誰もこんなふうには落ち込んでいないんだと思って、寂しくて、また落ち込むの」

それでいい、と思う。これを聞いてしまった以上、もう小手先で慰めようとも思わない。
うん、うん、と相槌を打ち続ける。
あなたはそれでこそ、ぴかぴかと光り輝いているのだ。

決して孤独を手放してはいけないよ。
その孤独があなたなのだから。その孤独を手放しては、あなたでなくなってしまうのだから。
人があなたを愛する理由の本質は、その孤独を感じるほどのあなた自身にあるのだから。

「そのわかられなさ故に、あなたはあなたなんでしょ」
「そうなのかなあ」
「そうだよ」
「許されたい気持ちは強いんだけどな」
「はは、許されたとして、どうせ許された自分を許せなくなるくせに」
「そうかもなあ」

そうだよ。笑って言う。
街子もきっと画面の向こうで笑っている。

決して孤独を手放してはいけないよ。