何を書くか。そして、何を書かないか。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

『風の歌を聴け』という小説はこの一節から始まり、こう続きます。

僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。

真剣に何かを書こうとするとき、その一節が頭をよぎって、またこの小説に戻ってくるという体験が僕にはあります。小説というものを強く意識していなかった頃は、(愚かにも)ただ聞こえのいい台詞の一つとして処理していて、巧みに名台詞を並べて物語の形をなすものが「小説」だと大きな勘違いをしていました。そんなわけで「僕にもできるのではないか」と思い上がりに近い気持ちで、僕はあっさりと書き始めたのです。

小説とは何か?

いざ作品に取り掛かろうすると、自分でも驚くほど何をどうしたらいいか分からず、お手本となる傑作をとにかく真似てみたり、小説読本の類に頼っては手直しを加え続けました。自分なりに一生懸命書き上げた短編は、やはり形や文章だけ立派に見せている小説のようなものでしかなく、圧倒的な何かを欠いていることが僕にも分かりました。ファッション誌を立ち読みして高い服を買うだけでは「お洒落」にはなれなかったのです。

小説とは「小説とは何か」を考える過程である

いわゆる純文学で功績を残している作家の方は口を揃えてこういった意味のことを述べています。小説は形式のない芸術であるから、小説が何をできるか、その可能性を提示することこそが優れた小説の条件である、という風に僕は解釈しています。「小説」と「物語」を混同していたときからすれば理解度はぐっと上がったものの、では何ができる?と聞かれたら、僕はぶたれる寸前のような顔で許しを請うしかないです。

ブログでは何ができる?

僕は小説と同じくらい、ブログというものが何か分かっていません。歴史も流行りも著名なブロガーも知らなければ、ブログにはだいたいこんなことが書かれている、という先入観すらありません。人生とは何か知らずとも生きていけるように、そんなことは知らなくても、何かしら文章を組み立てることはできるのだと思います。ただ、それがブログでしか出来ないことかどうかは、一度立ち止まって考える価値があるかもしれません。

僕には何ができる?

僕がやろうとしていることは、小説でしか書けないこと、を見つけることです。ブログという形式で書けることをすべて書き出して、友だちとの会話でも語り尽くして、それでも底に眠っている秘密のような、自分の知らない記憶みたいなものを、僕は浮かび上がらせてみたいです。それこそ僕の小説ではないか、というのが一つの仮説です。隠したり出し惜しみするような「用意された弾」は使い物にならないのではないかと、偉そうですが、僕はそう思うのです。だから創作と同じ熱量でブログを書いて、自分が面白がっていることはどんどん周りに話していこうという気持ちになっています。もしかするとその文化的なデトックスによって、僕の中に何も残らなくなるかもしれませんが、それはそれですっきりとして悪い気分ではないのだろう、と僕は思うのです。


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