いわゆる推しの話

どーもこんばんわちきりやです
思ったことをだらだらと書くし文章下手なので読みづらいの確実です。あとあくまでも自分の感想なので適当こいてます。綺麗にまとめる気もないので適当によんでね

最近私は斎藤環先生が書かれた「キャラクター精神分析」という本を読んでいます。今から10年ほど前に出た本なのですが今読むとここに書かれていることが当時からより顕著になってるなーと思いながら読んでいます。人は人と接する時に自分をキャラクター化していて本来の自分とのギャップに苦しんで〜・・・みたいなことが書かれています。まだ最後まで読み終わっていません。
読み進めていると『萌え』の話が出てきて「今は萌えが推しになったなぁ〜」なんて思いながら読んでるのですが
ふと「萌え」と「推し」って言葉の湿度が違うなーと思いまして・・・萌えは湿気がある感じで推しはカラッとしているなーと。
なんでしょうね?ぼく個人の感想みたいなとこなんですが。

私に萌えという感覚があまりないのでわからないところではあるんですが『萌え』は「かわいいなー」とかの個人の感情で完結しているのに対して「推し」は声援に近い呼び方だと思うんですよね。
なので推しという感情の方がまだぼくにはあります。

そんな推しという言葉も萌えみたいに企業が発信する段階に入って久しいですね。

そんな中で思い出してみると萌えは萌えキャラとして企業発信してたりしてますが推しは自分から言わないというか「公式推しキャラです!」とはならないですよね。
こう考えると萌えは個人完結してるけど推しは必ず推される対象も巻き込む感じあるなーなんて思います。推しって言葉は湿度もあまりないのでさらっとしてて使いやすいです。

なんてことを考えてたらですね、先ほどすごいnoteが流れてきましてこの駄文を書き散らすことになったんですが・・・

推しという言葉には活力を漲らせる力がありますね。推すことで自分の生活、QOLも爆上げできます。とてもいいことです。人間現実が辛くて自分のために頑張れなくても誰かのためになら頑張れるものです。
推しの対象は有名人や二次元から手の届く範囲まで物理的距離はさまざまです。
僕なんかは二次元キャラの推しがいて薄い本を4冊描いたりしましたが最近はたまぁにスパチャ投げたりもしてます。
人にはそれぞれ推す形があると思います。
普通に応援したり推しに認知されないよう密かに応援したりうちわ作ったり二次創作したりめっちゃグッズ買ったりめっちゃボトル入れたりスパチャしてそこで気持ち伝えたり公式エンゲージリング買ったり

と同時に推される方ってすんごい大変だろうなーって思うのです。今やネット上が生の声としてどんどん聞こえてきてしまう時代です。もちろんほとんどの方が節度を保って推されていると思います。が・・・・

萌えも推しもどちらもベースにあるのは「好き」の感情でしょう。
親衛隊が客席から大声で声援を送っていたいにしえの頃と比べて今は触れるだけならゼロ距離なんてこともまぁあるでしょうし故に推される側が怖い思いをするケースも多々あるでしょう。

推しの子はここから物語が展開していきましたね。
さて、ここで先ほどのあの例のノートを思い出してみましょう。

興味の無い人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?

推しの子の横槍メンゴ先生の前作であるクズの本懐の名言です。
わたし昔ここ読んだ時すんごい腑に落ちたというか、振る舞いを改めようと思いましたね人生レベルで。

なんだか書いてるうちにこの話どこに落とせばいいかわからなくなってきましたが適当に書き散らしてるだけなのでまぁいいでしょう。

初めに話したキャラクター精神分析の本に「学校のクラスの中で自分はこのキャラで行く」と決めてクラス内の立ち位置を決めた結果本来の自分とのズレを感じて病む・・・みたいな話があったのを今思い出したんですけどこれ現実社会だけじゃなくネット上だったりファンのコミュニティーでもそうなんじゃないかと思いました。

まぁなんというかネットでもリアルでもいわゆる声の大きい厄介勢と言われるような人たちは最初は純粋な気持ちで推してたのがそれがいつしか〇〇を推している自分(はこれくらい詳しいし知ってるし推しのことを考えている)という『人格・ポジション』に傾倒していった結果厄介勢になってしまうんじゃないかと
そこに推しに認知される喜びがきたらもういよいよ大変で・・・・

まぁここら辺を掘っていくとキリがないしどんどん怖くなるのでおひらきにしましょ、眠いし

生身の人を推す時は人間として適切な距離感を保ちましょうということにいくだけですし

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