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「お祭り」で集合

どうも、お久しぶりです。いかんせん暇がなく落ち着いて物書きができなかったものだから結構な時間が空きましたね。たまーにこういう感じの長文を考察とともに書いていきたくなるんですけども。やっと時間が取れましたよ。

んで今日はずばり「お祭り」からいろいろと考えていきたいかなーと思います。
暑くなってきましたし、夏の接近を感じる今だからこそ、今年のお祭り観に変化が付くような、そんなこと書けたらいいなーって思います。


そもそもなんでお祭とはなんじゃろなと、そっから考えようかなーとね。

日本において、まあ外国でも大方同じようなものだろうけども、やっぱり宗教的な部分が生い立ちに大きく関与しているのは間違いないんじゃないっすかねぇ。知らんけど。
でも今回はそんなに生い立ちは気にしていなくて、「現代のお祭り」にスポットを当てていきたいと思っています。

つまるところお祭りとはどこで定義されてるのかっちゅーことですね。

日本のお祭りで言えばもちろん地域で開催される夏祭りとかを想像してもらえばいいんですけど、いわゆる大衆意識的なお祭りってのはそれこそ一番上にある写真みたいなやつだと思います。

ではそのイメージから要素を分解していきましょうか。
例えば出店、提灯、広場、浴衣とかですかね。時間帯も案外大事かもしれません。
その中でも僕が大事だと思うのはやっぱり「人がたくさんいる」って部分なんじゃないかなと。

つまり、広い場所に出店があり、提灯が並び、夕暮れで、自分と可愛い彼女は浴衣を着ている。それでも人ごみがなければ「お……お祭り?」となるんじゃないでしょうか。ちょっと想像してみてくださいね。

なんとも悲しい風景が頭に浮かぶんじゃないでしょうか。個人的にはそういう写真も撮ってみたい感じはしますけれど、それはあくまで「人ごみ」が含まれるはずのお祭りの風景にそれがないことで発生するエモを収めるためですね。撮りたくなっちゃう。

では逆に、「人ごみ」だけで考えてみましょう。

「人ごみ」というワードで想像できる風景って、まあ商店街の歩行者天国とか遊園地とかですかね?まあ僕は最近目にする機会はないですけども。
んでもってそこに形容詞を付けるなら「お祭り騒ぎのような」って言葉も正しいと思いませんか?

つまり「お祭り」とは「人ごみ」を主な要素として構成されていると言ってもいいのではないでしょうかねーと。
言い過ぎですかね?

ちょっと長くなったのでここまでをまとめますね。

現代の「お祭り」とは→「人ごみ」がめちゃ大事ぢゃね?

ってことですね。うん、簡潔。

「お祭り」とは人が参加することで初めて存在を成す、相互補完的な存在ってわけですね。


さて、ここからいろいろ考察していくわけですが、ここからは事実のお話ではなく考え方のお話なのでそこだけご了承くださいね。

やっぱり日本人は自分が集合の中にいることにある程度の強度を持った快感が発生するんじゃないかと。今更ではありますけどもね。再確認です。

イケイケJKが「誰もいないスクランブル(笑)」って午前3時くらいのスクランブル交差点の写真をインスタに上げることがないように。
近所のおばさんがいつも集まって立ち話をしているように。
そして、人のいない「お祭り」がそれでないように。

「スタバでMacを開き一人で作業する」なんていう一見集合という概念からかけ離れたようなことだって「『スタバでMacを開き一人で作業』するかっこいい人たちの集合」に含まれようとしているわけですからやっぱりそこには一種の快感のようなものがあると思います(マジで真面目に仕事しているのだろうけども)(怒らせちゃったようならごめんなさい)(許して)。

サブカルがサブカルであるからゆえに流行するのも同じようなものでしょう。

とまあここまでがふとバイト帰りに自転車乗りながら考えていたことを文字化した感じなんですけど。(家に着いたのでこれ以上は考えなかった)


でも面白くありませんか?
古来から続く行事である「お祭り」が言葉をそのままに、形やその存在価値を変えながらも常に国民性を体現しているっていうこと。
そして今年もそろそろそんなシーズンが近づいてきましたね。

なんだかんだ屁理屈をこねくり回していますがお祭りはやっぱり楽しい。
一緒に行く人も時間もお金もないのでここ3年くらい行っていませんけど。
皆さんもお祭り行きましょうね。


と、いうことで。

今回はこれくらいにしときます(実はそろそろ飽きが出てきた)。
でも文を書くのは楽しいです。noteという場があってよかったなと。

ネットの海に自分の文章をぶん投げる人達の一員になれるのだから。

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