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静寂者ジャンヌ 1 寄り道学校 ・神秘家・妙好人

うつうつ
うとうと
していたら
カンレキの
すぎている

なにかいいこと
あるのかな

ないよね。

鬱とパニック障害と生来の怠けぐせで、日々微睡んでいるうちに、
目が覚めれば、自分の人生、整理整頓の時期に来ている。

ぐずぐずしてはいられない。
残された時間、せっせと書こう。

このブログでは、ぼくの敬愛する静寂者たちについて書いてゆくつもりです。

特に、Jeanne Guyon (1648-1717) について紹介してゆきます。


彼女は、17世紀フランスを生きた人です。
一般に、彼女は「神秘家」と呼ばれています。
まあ、それでもいいのだけれど。
でも、彼女をあえて神秘家と呼ぶ必要はないと思っています。

ジャンヌ・ギュイヨンはどんなレッテル貼りもできない。
規格外の人です。

その波乱万丈な人生は、さながらヴェルサイユ宮廷を舞台にした王朝浪漫、というか王朝綺譚のようです。

この10年間あまり、ぼくはジャンヌ・ギュイヨンのテキストに耽溺してきました。
このブログでは、彼女について気ままに読んで楽しんでもらえるように、あまり理屈ばらずに、彼女の面白いところをゆるゆる書いてゆこうと思います。

フランス語で école buissonière (エコール・ビュイソニエール)という言葉がある。昔の林間学校の意味だ。 buisson(ビュイッソン)は、藪の意味。faire l’école buissonnière(エコール・ビュイソニエールをする)だと、学校さぼって道草すること。
そんな道草気分で、気の向くままに書いてゆこう。
時々、藪に迷い込んだり。
木陰で休んだり。
ああ、きょうも学校行かなかったなあ…
と、心のどこかで思ったり。
それもまた、趣があるだろう。

最後は、すべて藪の中かもしれない。


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ジャンヌ・ギュイヨンは神秘家というよりも、
今だったら、瞑想家と呼ぶほうが適切だろう。
実際、ジャンヌ・ギュイヨンは卓越した瞑想家だった。

もちろん、どんな瞑想家にとってもそうだろうけれど、
彼女にとって、瞑想の時間だけが問題ではない。
生き様の全体が問われている。
ジャンヌは自分の修道を〈内なる道〉la voie intérieure と呼ぶ。
無限の自由とやすらいに至る道。
静寂の道だ。

あらゆるイデオロギーに囚われず、自由でいること。
たましいに埋め込まれた言葉をすべて落とすこと。
たましいのデトックス。
そして、また戻ってくる。
洗いたての言葉を手に。
そうやって融通無碍に、無限を遊ぶ。

ジャンヌにはやっぱり「静寂者」が似つかわしい…

だいたいジャンヌは、いわゆる神秘的なことに、とんと関心がなかった。
死後の世界にも関心がなかった。
ものすごく、フラットなのだ。

日常を、淡々と暮らしながら、
どうやって、こころの底の静寂に、佇んでいられるか?
でも、ノーと言うべきことは敢然とノーと言い続ける。
あくまでも自分の良心に従う。

個としての柔軟で強靭な生き方だ。

ジャンヌ・ギュイヨンは、日本ではごく一部の専門家以外には、ほぼ全く知られていない。
入手できる本では:
1990年に教文館から刊行された『キリスト教神秘主義著作集 第15巻』https://shop-kyobunkwan.com/4764232154.html
この中に、彼女の主著『奔流』の全訳が載っている。この訳と解説(いずれも村田真弓氏による)が、日本での無二のギュイヨン研究の成果だろう。
(この他、ネットではジャンヌの著作の訳や解説が散見する。)

だが実は、ある人物が、なんと昭和23年(1948年)、つまり太平洋戦争が終わってから3年後の時点で、一言だけれども、ジャンヌについて触れている。
鈴木大拙だ。
『妙好人』という著作のなかで、大拙はエックハルトについて触れた後に、こう書いている。

(…)これに似たようなことをマダム・ギヨンもまたいっている。曰く、「真理は二つである。全と無である。神は全であり、吾等は空である。この空無の故に全なる神が吾等の心を占領する」(祈り)。このような提言は大抵の神秘家の文書中に見られるのであるが、佛教でもこれと同じことを説く。曰く、「自力の力がつきる時、他力が全面的に吾等の心を占領する」と。(…)  『妙好人』(法藏館1976年 p24)

マダム・ギヨン ー ジャンヌ・ギュイヨンは一般にギュイヨン夫人(マダム・ギュイヨンMadame Guyon)と呼ばれる。(○○夫人という言い方は好きではないので、使いませんが。)
大拙はきっと、ジャンヌのテキストの英訳を読んだのではないか。(ジャンヌはフランスでは完全に黙殺されてきたが、アメリカのプロテスタント、特にメソジスト系の間で読み継がれて来た。それについては今度、詳しく書こう。)『祈り』と題されるテキストが具体的にどのテキストのことか分からないが、「神が全て tout、わたしは無néant」は、よくジャンヌたちが使う文言だ。

「妙好人」というのは、浄土真宗で、市井に暮らしながら深い信仰の境地に遊ぶ人たちのことだ。
いってみれば、静寂者の真宗バージョンだ。
大拙はこの妙好人に着目し、あちこちで語ったり書いたりしている。
そこに、よく知られたエックハルトを持ってくるのは、まあ、驚きではないが、ジャンヌと妙好人との取り合わせの妙は、さすが大拙の慧眼だ。

たしかに、ジャンヌの最大の特徴は、その「他力」性、徹底した受動性にある。それが、西洋文化圏、特に西洋近代では認められなかったのだ。

なんだか本題に入らないうちに、だらだら長くなってしまった。
いったん、ここでやめよう。

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