江戸時代の京都/今の京都 第6回 桃の節句
2024年3月3日。
昨日は上巳の節句、ひな祭りでした。五節句のひとつとして厄除けなどの願いを込めてお祝いされてきました。
宣長の日記を見てみましょう。
宣長の時代も三月三日が節句だったようです。
宝暦六年のこの日は雪。グレゴリオ暦では4月です。宣長の言うとおりとても珍しいことだったと思います。
翌年の日記も見てみましょう。
宝暦七年は穏やかな天候だったようです。
どちらにも、挨拶の記述があります。原文では「礼にくる人ども」「礼にまわる」とあります。
今は各家庭でお祝いするのが通常ですが、当時はお世話になった方々等へお礼の挨拶まわりをするのが習慣だったようです。
挨拶回りの習慣はなくなってしまいましたが、各家庭でのお祝いはどうだったのでしょう。宣長は何も書いていません。
次の図会をご覧ください。
図会は江戸時代の浮世絵師、鳥居清長によるものです(注)。清長は宝暦二年生まれで、宣長より少し後になりますが、ほぼ同時代です。
図会を見ますと、ひな人形や、朱色のひな壇、桃の枝を飾る様子など、今のひな祭りとほぼ同じかたちであることがわかります。
日付は三月三日で同じ。おうちでの飾りも今のひな飾りの原型は、宣長の時代には出来上がっていたようです。もちろん、五人囃子が図会では三人ですし、いろいろ異なる点はあるのでしょうが、図会からは今のひな祭りと同様の趣旨、空気が感じられます。
一方で、挨拶まわりの習慣は、今では概ねなくなっています。
江戸時代と今のひな祭り。同じところと、変わったところがあります。
私は、このように江戸時代から連続していることと変化していることを確認することで、今のひな祭りを一層楽しめるのではないかと考えています。このnoteを書いている大きな目的のひとつです。
ところで、ひな祭りについては、今と江戸時代で大きく変わっていることがあります。日記の続きを読んでみましょう。
ひな祭りの日に、東山の高台寺で花見をしています。
念のために申し上げますが、この花見は梅ではなく桜の花見です。今では、3月3日に桜の花見は考えられません。しかし、第2回でお話ししましたとおり、当時の太陰太陽暦は、グレゴリオ暦とは大きなズレがあります。
宝暦六年の三月三日は1756年4月2日、宝暦七年は1757年4月20日でした。ちなみに宝暦八年は1758年4月10日です。
このように、当時の暦の三月三日、ひな祭りの日は、概ね今のカレンダーの4月にあたっていました。
さて、このことが、あることに気づかせてくれます。それは、上巳の節句は、ご存知のとおり親しみやすく「桃の節句」と呼ばれてきたことです。
桃の開花は概ね桜と同じ時期です。ですから太陰太陽暦の三月三日頃は桃の花が咲く季節なので桃の節句と呼ばれたわけです。
とても素直な理由なのですが、最近は桃の樹は桜や梅に比べて見ることが少ないため、ややもすれば、桃の節句が今のカレンダーの3月3日なので、桃の花もその頃に咲くと思われている方さえいらっしゃるかもしれません。
京都府立植物園の桃です。
次の写真は、同じ日の同園の桜です。
桃と桜の開花時期が、概ね同じと言うことがおわかりいただけると思います。
さてさて、暦や季節の話はご説明するのもややこしく、読まれてもなかなかピンとこないかもしれません。ただ、この煩わしさを避けて宝暦七年三月三日とだけ記述して過ぎますと、普通はグレゴリオ歴の3月3日を考えてしまいますので、桜が「やや散り始めになっていた」という記述が意味不明になってしまいます。梅の花と誤解される方もいらっしゃるかもしれません。
こうしたことを避け、『在京日記』をきちんと味わっていただくために、今後も暦と季節については、時々言及することになると思います。少し煩わしいかもしれませんが、こうしたねらいを御理解いただきまして、寛大におつき合いいただけますと幸いです。
東山の高台寺のお花見につきましては、また稿をあらためたいと思います。
(注)図会「子宝五節遊 雛遊」は東京国立博物館の研究情報アーカイブズご提供のものです。ほかにもたくさんのデジタルアーカイブがご覧いただけますので、是非一度アクセスしてみてください。