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江戸時代の京都/今の京都 第2回 昔の暦

 こんにちは。
 本日2024年2月4日は立春です。前回noteの『在京日記』の記事にありましたとおり、宝暦六年十二月十五日(1757年2月3日)は節分でした。ところで、次の宝暦六年正月の記事をご覧下さい。

宝暦六年正月五日(1756年2月4日)
 節分。晴天。時々雪ガ少シ降ル。
 年が明けて、また春がやってきた。でも、まだとても寒い。この頃はいつまでも寒さの厳しい年が多いが、今年は節分も遅いので、特に寒いのも当然かもしれない。

 記事には、宝暦六年正月五日も節分だとあります。
 あれっ?節分が2回? 不思議ですね。でもこれは宣長の書き間違いではなく、実際に宝暦六年には節分が2回ありました。どういうことでしょう。
 このことを理解していただくために、当時の暦のしくみをご説明することとなります。少しややこしいですが、おつき合いください。

 宣長の時代の暦は太陰太陽暦というもので、月(Moon)の周期と太陽の周期との折衷による暦ということができます。
 まず、正月、二月…という月(month)は、月(Moon)の周期に基づいていて、大の月が30日、小の月が29日とされていました。月(Moon)の周期は概ね29.5日ですので、ほぼ同期します。31日はありません。
 一方で実際の季節は、太陽の周期に応じて移り変わります。今のカレンダーでは、太陽の周期に基づいて月日を決めているため、毎年同じ月日は概ね同じ季節になります。
 しかし、宣長の時代の暦では太陽の周期と月(month)が合わないため、同じ月日でも年によって季節が異なることになります。月日をもって季節が把握できないわけです。こうなると、農耕などにも支障が出るため、月日とあわせて使われていたのが「二十四節気」です。「二十四節気」は太陽の周期を24等分したもので、節分(立春)はこの二十四節気の一つです。このようにして当時は、太陽と月(Moon)の周期の折衷による暦で生活していたわけです。

 ただ、そうすると新たな問題が発生します。月(month)を29日と30日としているため、太陽の動きと比べて、月(month)が前に前に進んでしまい、月日と季節のズレがどんどん拡大していきます。月日と季節が全く対応しなくなってしまいます。そうしたことへの対応として、一定の年ごとに設定されたのが「閏年」です。「閏年」を設定することにより、月日と季節のズレを修正しました。宝暦六年には十一月と十二月のあいだに「閏十一月」がありました。そうすると当然日数も増え、宝暦六年は一年が384日もありました。
 ますます混乱しますね。

 やっと最初の問題です。このようにして、宝暦六年は384日あり、正月と十二月に、それぞれ二十四節気の節分があったというわけです。ちなみに、十二月に節分(立春)が来ることを「年内立春」といいます。
 なお、日記の宝暦の日時のあとのかっこに(1756年2月4日)(1757年2月3日)とあります。これは当時の日付をグレゴリオ暦で置きかえたもので、それぞれ、2月3日頃が節分であることがわかると思います。

 今の暦と昔の暦とは、微妙に複雑で、なかなか理解しにくいところがあります。それでも『在京日記』はこのことを考える良い材料であると思います。少し想像力を膨らませながら読んで見ていただければと思っています。
 なお、暦に関しましては、次のサイトがおもしろく、私も随分と勉強させていただきました。もしよろしければご参照いただければと思います。

 あと、前回、五条天神社のお話をしました。今の写真データは見つかっておりませんが、江戸時代の名所図会にありますので、下記のリンクからご覧ください。
 なお、国際日本文化研究センターさんの名所図会のデータベースは、索引もついていて、江戸時代の京都を楽しくみることのできる優れたものです。是非ご参照ください。


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