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おそらく挑んでいたんだろう。

車の中で音楽をかけながら仕事に向かう。飽きたというくらい数枚のアルバムをローテーションで聴いている。そのアルバムの中の一曲。

ぼんやりと聴きながら「上を向いてでも下を向いてでも前を向いてても涙は溢れる。挑んでいるなら涙はこぼれる。そんなもんほっとけ!」という強めのフレーズを拾ってしまう。そりゃそうだと思う。ピストル先生は相変わらず熱い言葉を叫び散らしている。
そして、5年生の息子がこの間、通っている学習塾で泣いてしまったという話を思い出した。人前で泣くということを「泣いてしまった!」と思い始める歳なのではないか?恥ずかしさとやるせなさと言葉にできない感情が入り混じる年齢の始まりかもしれない。なぜ泣いたのかというと最小公倍数の問題が解らず先生に質問に行き、解説を受けている最中に泣いたんだという。最小公倍数。算数が嫌いだった私のなかでは、何十年も前になきものとした言葉。息子が質問した時は周囲に他の生徒はおらず一対一の状況だった事が本人には救いだったかもしれない。わからない自分の心にどう折り合いをつけていいのかわからなかったのか、悔しかったのか?説明されてもわからないと言っていいのかどう反応していいのかわからなかったのかもしれない。家に帰ってきてから、走り書きのプリントを見返し説明されたところを振り返り、説明を聞いてわかっていた部分が再びわからなくなってウダウダグズグズイライラしている。気持ちはよくわかる。とても。
しかし、「わからなくなったらまた聞けばいいじゃん」とイライラにイライラで応戦してしまう。

今思えば、あれは、挑んでいたんだなと。小学生になると必然的に毎日新しい事を習い、課題が出されそれをクリアしていくことが求められる。学生時代はそれが準備される環境にあり、本人たちはそれほど意識していないかもしれないが挑む場が日常に組み込まれている。

人生で誰もが驚くような大きな大きな挑戦はほとんどの人には訪れないだろう。おそらく。でも、各々の状況にあった些細な挑むというほどではないかもしれない挑むというシチュエーションは次から次へとやってきているのかもしれない。
日常を耕す。日常の挑むを浮かび上がらせる。

大人になるとそういう場を自ら作り出し続けなといけない。

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