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兆し

3月上旬も過ぎだんだんと暖かくなってきている。着々と春へ向けて時は刻まれている。春への兆しを感じつつ、何かを文章にしようと決めているわけでもなくただ何となくスマホをの文字入力の五十音をタップしている。いつものパターンだ。

先程、不動産屋さんに行って親切に対応してくれたおばちゃんとしばらく周辺地域のことを話し込む。そういえばわたしもおじさんだった。そしておばちゃんにスケルトンの意味を教えてもらった。ありがとう。これが今日の収穫だ。

娘は学校から帰宅後、直ぐに公園へいく。リュックいっぱいに何かを詰め込んでパンパンの状態で勢い良く出ていく。公園に何をそんなに持って行くのだろうか。

長男はフォートナイトに夢中だ。毎日やっている。飽きないのだろうか。うんざりするまでやってみたらいいと思う。

子どもたちにとっては学校が終わってからが本日のメインイベントであり、そこで起こった出来事が最大の収穫なのかもしれない。

そしてわたしは兆しを見出せないままにここまで来てしまった。いつも立ち往生している。しかし、良い兆しを見出せなかったからこそここまできたのではないのか?ものは言いようだ。立ち往生しておいてここまで来たはないだろう。しかし、立ち往生している。立ち往生しまくっている。いや、むしろ立ち往生したいのではないか?と思ってしまう。

このあいだ「苦しいことから逃げていると楽しいことからも遠ざかる」という文言をみかけた。まさにその通りですと心の中で思ってしまった。

何はともあれ母の腰の術後経過が良いことが嬉しい。良い兆しを感じずにはいられない。

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