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思い出したように

思い出したように思い出しnoteのアプリを開く。前回の記事も思い出したように書き始め、内容なんて全く無い文章に仕上がっている。最後に更新したのは7月だ。2か月以上経過している。定期的に続けるのは簡単ではない。しかし、やめてはいないから良し❗️と都合の良い理由をこじつけ肯定感を保っている。とくだんこのnoteを続けている理由もなく書く理由もない。ぼーっと生きているせいで理由というものを見いだせない。

あいかわらず、仕事といえばコロナ禍の後遺症を引きづり、そして、色んなものを引きづりまくり、ヌルッと開設した施術ルームの行く末を他人ごとのように案じながら周りには凄腕であろう同業者がひしめき合っていて、とんでもないところに開業してしまったと浅はかな判断を好転させようと思うけれど、何をどうしたらよいのか?という焦燥感と不安と、定期的に家族に指摘される口臭を何とかしようと思う日々であります。「目標は好転させる」だ。

そして、日中は訪問施術に向かう車で信号停車をほどよく繰り返す。横断歩道には無数の歩行者がスマホを覗き込みながら歩き、虚像の世界へとおそらく意識は向かっているのだろう。身体は青信号とはいえスマホの情報よりかは危険なリアルな横断歩道をノロノロ渡り道路を横断するときくらいはスマホから離れられないものかと車内でつぶやく。

書き始めたこの記事の着地点を見いだせないまま出来事とも言えない事柄を書きつらね今どうやって終わらせればいいが思案しているがどうもにもこうにも何も思い浮かばない。日記ともいえないこの文章を数日後、読み返して何を思うのか。

とにかく着地どころを見い出しとにかく「好転」させるのだ。「好転」させるにはそれなりのそれに繋がる「変化」が必要で「変化」は大幅なものでもなくてもよくて微細な「変化」を繰り返す。おそらくそれが大切なのだろう。

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