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「私には趣味がない」から考えたこと。

私には趣味がありません。長男が現在小学4年生、長女が保育園の年長。長男はもう休日となると友達と遊ぶ事が多く、長女はまだ手がかかりますが長男同様、次第に自分の世界を広げて行くでしょう。

そうなってくると自分の時間というものを確保しやすくなってくるというか、子どもと対峙しなくてよい時間が少しずつ出てきます。子どもが生まれてからは当たり前のように子ども中心の生活となり、それが楽しくて小さいうちは子ども達と多くの時間を過ごしたいと思ってきましたし、実際にそうしてきました。また、友人が少ないというのもそうしてきた理由の一つと言ってよいかもしれません。

そういった中である日、ひとりの休日に何をして良いのかわからないという事が多々ありました。なんだか時間を持て余してしまう。学生時代はサッカーに熱中していて、それ以外は全く興味がないという状況でした。卒後サッカーをしなくなり、社会人となってかなりの年月が経過していますが趣味を持つとうという意識すらなかった様に思います。独身時代は何を過ごしていたのだろう?と思い返しても全くもって何も浮かびません。

さすがにこれってやばいんじゃね?とふと思い始めました。必ず趣味を持たなければならないという事はないと思います。しかし、時間があるにも関わらず何をしたら良いかわからないということ自体が小さなショックで、自分は物事に対して無関心なのではないか?と漠然とした不安感に襲われてしまう始末。どちらかというとボーっとテレビやYouTubeを見たりすることで時間をやり過ごし、リラックスしているのが好きなタイプではありますが。

ここで話は変わらない様で変わりますが義父は電気工事の仕事をしています。体格はがっしりとしていて、頭は禿げ上がり、指なんか節々がゴツゴツしており繊細さとは程遠い明らかに電器屋の手です。しかし、器用さは抜群で細かい作業からちょっとした家具の作成なんてお手の物で直ぐにホームセンターで材料を調達し便利なものを作ってしまう。

そんな義父は若いころ自衛隊で音楽隊にいたそうです。風貌からはどう考えてもなかなか音楽とは結び付きません。除隊後は電器関係の仕事につき、その流れで田舎に戻り電器屋で生計をたてています。音楽隊にいたこともあり、音楽好きなんですが、音楽好きだとCD聴きますよね。そこからのhigh-endのスピーカーや真空管などのユーザーで音に拘り、さらに自宅屋根裏を改造しバカでかいTVを持ち込み、7台ものスピーカーを駆使し映画館と同等かそれ以上の音響でDVD鑑賞や音楽を楽しんでいる。年末は必ず屋根裏部屋に籠り恒例の第九のコンサートを爆音で堪能しています。まさに趣味を満喫しているのがひしひしと伝わってきます。スピーカーの説明する時なんて嬉々としています。まさに楽しんでいる。愛好している。こんな風に楽しむ事ができたらなんて幸せなんだろうと思ってしまいます。   

私の場合、ぽっかりと時間が空くと「何をしていいかわからない」があります。これって日常生活がいつの間にかルーティン化しすぎているからではなか?という事がひとつあるんじゃないかと思います。平日、休日の朝起きて寝るまでを振り返る恐ろしいほど単調で、仕事もイレギュラーと言える程の事もない事に気づきます。よくもまぁ、ここまで変化のない日常を送ってきたなと震えてしまいます。変化を好まない性格がここで仇となっています。あまりにも予定通り過ぎる。予定通りに物事が終わると安心するし、ルーティーンとなると考えなくて良いし、精神的もストレスなく過ごせる。でも何か余白がない感じというかのっぺりしているし作業的といっていいかもしれません。そして、楽だから仕事でもプライベートでも新しい試みをしなくなるんですよね。

日々、様々な出来事がありそれによって精神的な起伏というかストレスが無いと自分という個性が浮かびあがってこないのでは?と思います。そういった中で色んな感情が生まれ、人との交流が生まれ、それが生活して行く上で潤滑油となったり、時に摩擦が発生し、行動が変わり、その隙間で気分を変えたり、興味が引くものが出てきたりする事で趣味的なものが見つかることもあるのではないかと。

ルーティーン化し過ぎると自分の中でその日の出来事として捉えらる事柄が少なくなってくる。それは、チャレンジしていないひとつの指標になるんじゃないかと思います。

ルーティーン化しないこと。予定調和を好まない。出来事を起こすこと。それが趣味がみつかるきっかけになり得ること。

結局、何が言いたいのかというと生き生きと生活していきたいだけす。


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