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今、音楽を聴くのが楽しくなる話を聞いた。「リズムから考えるJ-POP史」imdkm著(blueprint)刊行イベント~J-POPのリズムを分析する~(京都編)

kenzee「昨日、(10月5日)こんなトークイベントを観に行ったのである」

「リズムから考えるJ-POP史」imdkm著(blueprint)刊行イベント~J-POPのリズムを分析する~ at出町座 ゲストimdkm、MC神野龍一(関西ソーカル主宰)
https://demachiza.com/event/5022

ボクはこの本を早速、発売日に購入していたのでリアルタイムなイベントであった。木曜日に買って、土曜日のイベントだったので自分にとって重要、と思われる小室、中田ヤスタカ、m-flo、KOHH、宇多田、そしてtofubeatsによる解説、というところまで読んでから臨んだのだが、実に面白いイベントであった。一応どういう本か? 版元の書籍紹介を引き写しておこう。

「リズムから考えるJ-POP」(株式会社Blueprint)
 気鋭の批評家・imdkm(イミジクモ)による初の書籍。平成30年間を彩ってきたJ-POPの数々はどのように変化してきたのか。小室哲哉やMISIA、m-flo、中田ヤスタカ、Base Ball Bear、KOHH、サカナクション、三浦大知そして宇多田ヒカルといった各年代を代表するアーティスト、プロデューサーを取り上げ、そのリズム表現に着目してJ-POPを分析。


というもので著者はもともとビートメイカーや映像制作に携わっていた方だそうでこのような執筆活動を開始したのは2016年頃だそう。今回の本がデビュー作となる」

司会者「神野さんの和服姿を久々に見たね」

kenzee「ウン。(神野さんの落語を鑑賞経験済)ボクは普段、大阪をウロウロしていることが多いのだけれど久々に京都にやってきて鴨川とか昼下がりの先斗町とか散歩していたんだけど、神野さんってやっぱ京都文化の京都人間なのだな、と感じたよ」

司会者「出町座のイベントスペースは中学校の教室よりちょっと広いぐらいのとても親密な空間でした。実際の音を聴きつつ、解説していく、という内容」



kenzee「↑これだけだとよくある、音楽ライターを招いて音楽について語るトークイベント、という感じでしょ。今、これを呼んでいるアナタもYou TubeやアベマTVやポッドキャストとかでそういうイベント中継などを観たことがあるかもしれない。で、そういった場面での音楽の語られ方、というのがほとんどパターン化している、ということに気づいている人もいるだろう。よくあるのはこういう感じだ。

MC「2019年の音楽のトピックといえば・・・」
ライター「アリアナ・グランデの「thank u,next」は泣けたよネ~。過去の恋人たちの実名バンバン挙げながら、「nextを生きるわ」てな宣言なワケ。その過去の恋人のなかにはオーバドーズで死んじゃったマックミラーとかいるわけで。あと、彼女自身2017年のマンチェスター公演で自爆テロに遭遇してPTSDになっちゃったりもしたことまで踏まえるととても力強い宣言なワケね」
MC「ネガティブを踏まえたポジティブメッセージてことですね!」
あるいは、
MC「活動再開後の宇多田ヒカルの音楽ってどうですかね~」
ライター「やっぱ人間活動中(休業中)にお母さんが非常に辛い形で亡くなっちゃったんで、再開後の宇多田作品にはそういった経験が反映されていると、思うんダナ」
MC「ナルホド~。あと出産とか離婚とかありましたもんね~」(あくまでありそうな例です)


といったトーク。日本の音楽雑誌の場合、記事の構成やインタビューにおいてもこのようなロジックが発動することがままある。一応ボクも音楽ライターなので、日本の音楽ジャーナリズム、ネット界隈ではよく(ロキノン系)などと揶揄されることのあるこの手のロジックがどのように形成されたのか、ということを考えたりもしたのだが、手短に言うとこういう歴史である。

・もともと日本において60年代後半までは音楽は「紹介」されるもので(「ミュージック・ライフ」におけるビートルズなど)、批評の対象ではなかった。

・60年代のアメリカにおいて後の日本の音楽ジャーナリズムに多大な影響を与えることになる2大雑誌が創刊される。66年にポール・ウィリアムズが手がけた「Crawdaddy!」と67年にヤン・ウェナーによって創刊された「Rolling Stone」(※今netflixでRolling Stoneの話やってるヨ。面白いヨ)である。これらは当時勃興しつつあったヒッピー思想とベトナム戦争を背景に「人間主義」的な編集方針で貫かれており、「Rolling Stone」の政治的な姿勢などは日本のミュージック・マガジン(69年創刊)、ロッキングオン(72年創刊)などに影響を与えている。

・結果、この50年近く日本の音楽ジャーナリズムはアメリカン・サブカルチャーにありがちな左翼寄りのヒッピーイズムのようなロジックを基本線に編集されることになる。そうすると音楽の語り方とは「このラッパーの韻って、ちゃんとスネアの半拍ズラシにあわせて踏んでるんじゃね?。やたらノリよく聴こえるのはそのためか?」みたいな論考が口を挟む余地はなくなり、「アリアナ・グランデは辛い目に遭ったからエライ」のようなナゾの不幸自慢みたいな様相を呈すようになる。言うまでもないことだが、音楽は音楽であって空気に乗って耳に届いてくるこの「音」がすべてである。テロに遭遇したり、セレブ恋愛を重ねたからいい音楽を奏でるわけではない。「東大出のシンガー」だからすごい曲を書くのではない。工業地帯の複雑な地域で育った不良少年だから優れたラップができるということではない。肉親が亡くなったからといって作る作品のトーンが暗くなる、というものではない。創作というものは。パフォーマンスというものは」

司会者「でもみんな(プロのライター)はうすうすそういうことに気づいてそうなのにどうしてその手のロジックから抜けられないのですかね?」

kenzee「その手のロジック以外の語り方を知らないからです! そしてサブスク以降(日本においてサブスク元年とは、アップルミュージックとAWAがスタートした2015年と言われている)音楽の聴取体験、聴かれ方、使われ方は大きく変化した。高額なCD、レコードを購入して音楽を聴取していた時代からもっとも変化したのは人々が「音楽は、生活をよく(よりオシャレに、よりよい睡眠に、よりリラックスに)するための空間デザインのようなもの」と認識し始めたということである。これはスポティファイが勧めてくるプレイリストのタイトルが雄弁に物語っている。むしろこのタイトリングこそが現代的な音楽批評、といってしまっても良いぐらいだ。曰く、「眠れぬ夜の音楽」、「半身浴のススメ」、「Relaxing Massage」、「Midnight Chill」、「元気Booster」、「Woman Don't Cry」、「猫とお昼寝」etc.(いずれもspotyfy作成のプレイリスト)というもの。音楽はすでによりよい生活のためにどのように機能するか、という点でのみ測られているようだ。アーティスト名や楽曲名などは二の次、いかに気持ちよく「猫とお昼寝」できるか、ということに焦点が当てられる。こういった現代社会によく見られる事象(いかに生活に低コスト、小時間で高効率の効果をもたらせられるか、という機能面の競争)をスタバ化と呼んでもよいかと思うが、よしあしは別として新しい聴き方に変化した以上、新しい語られ方が求められているのである。音楽への語りとは。

・そこで「リズムから考えるJ-POP史」の登場である。





 この論考が音楽ジャーナルとして決定的に新しいのはKOHHや宇多田といった、従来的な語り口(貧しい環境で育ったから、複雑な環境で育ったから)が好んで取り上げそうなアーティストを取り上げながらその「人となり」には一切触れようとしない姿勢である。この著者は実際の「音」に着目する。曰く、人間活動復帰後の宇多田楽曲は極端に複雑なポリリズムを持つものが散見される、KOHHのラップは一見、簡単なフレーズを反復しているだけのように聴こえるが、通常のラッパーとは拍の捉え方が違う、といったリズムやビート感覚から起こしていく音楽への語りである。また、現在の宇多田、cero、折坂悠太等に見られる複雑ポリリズムと2008年のPerfumeの「ポリリズム」(これも間奏にポリリズムが登場する)では複雑さがこの10年の間に「このぐらいに違う、」とあくまで実証的、ファクトを積み重ねる形で論じてゆく。この本で「宇多田」や「KOHH」といった「人間」は後景に退き、「音」が前景に迫ってくる。このサブスク時代(さらに昨今よく言われるファクトフルネスの時代)に読みたかった音楽の語り、とはこういうものではなかったか、とボクは思う」

司会者「この本自体がでたばかりだし、著者は新人だし、版元も決してメジャーなところではないので今のところはあまり話題になってないかもですが」

kenzee「音楽雑誌の編集者やライターは必読の今後の重要な参照先となるのは間違いない一冊だ。無論、百点満点の論考ではない。「リズムのJ-POP史」と名乗るわりには抜けが多いとも言えなくない。たとえば「POINT」('01)以降のコーネリアスについての言及は?とか「ソノリテ」('05)においてこれまで8ビートか16ビート一辺倒だった山下達郎が突然4分の5拍子であるとかワルツの曲など、拍子からアプローチしたトピックであるとか2000年代初頭にティンバランドが日本の歌謡曲に与えた影響について論じられているが、同時代の日本語ラップ勢にスウィズ・ビーツが与えた影響は?とか揚げ足を取ろうと思えば可能だろう。今後、そういうヤカラが現れるかもしれないがそんなことは瑣末なことで、この本は決定的に「新しい視点と新しい語り方を見つけた」という点でそのような戯言を圧倒してしまう。プロのライターはもっと半泣きになってもいいぐらいの論考が登場したのだ」

司会者「ホントにそんなに新しい視点でしょうか? 本のまえがきに「佐藤良明「ニッポンのうたはどう変わったか(増補改訂)J-POP進化論」と輪島祐介「踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽」などの議論に影響を受けた、とありますが。」

kenzee「いずれも名著でとくにハッキリ「リズム」と「歌謡曲」の結びつきについて考えた「踊る昭和歌謡」は大きな示唆を与えただろうと思う。それでも「踊る~」は80年代終わりのユーロビートあたりで終わってそのあとはちょこっとしたエッセイで終わっている。この続きを書きついだということでもこの本はすごい。また、同様のアプローチでの批評ということでいえば2013年1月からNHKのEテレでオンエアされた音楽プロデューサー亀田誠治の「亀田音楽専門学校」があったではないか、という声もあるだろう。実際、そのとおりかもしれない。ただ、imdkmさんのほうがよりお茶の間感覚だと思うのだ。これは重要な資質だよ。それにこの本はあの番組が終了(2016年)してからのビートの変化について多くを費やしているし。」

司会者「この本のテーマの取り上げ方が一面的で断片的だ、という批判はないですか?」

kenzee「それはある。でもそれも瑣末なことだと思う。たとえばイベントでも結構時間をとって取り上げられた「ティンバランド歌謡問題」(※2000年代の初頭に現れた、米国のプロデューサー、ティンバランド風のアレンジ楽曲のこと。当時「チキチキ」などと呼ばれた、曲自体はスローなビートなのにハイハットなどの上モノは32音符など細かいビートを刻んでいるというもの)このような当時のアメリカの最新ビートをスマップ「らいおんハート」('00)、DA PUMP「if・・・」('00)のような大ヒット曲に取り入れられていたことがこの時代の歌謡曲シーンの特徴である、といったような話)だけども、この「ティンバランド問題」を「ベタベタな日本の歌謡曲のメロディーに最新の英米のビートを加えることで親しみやすさと新しさを同時に演出する手法」と定義すると日本の歌謡史はわりと歴史的にこれをやり続けている、とも言える。たとえば竹内まりや「駅」('87)は竹内楽曲のなかでも屈指のベタベタなメロの曲だがオケは裏のハネを強調するようにアレンジされていてオケだけ聴くと同時代のAORかブラコンのよう。同様の試みは矢沢永吉「時間よとまれ」('78)にも見られる。メロはいつもの矢沢風ヨロシクなバラードだが、ドラムとキーボードが常に裏を強調することで単純な矢沢バラードになることを回避している。さらに時間を下ると井上陽水「青空、ひとりきり」('73)の例に当たる。典型的なマイナーフォークのメロに「暴動」期のスライアンドザファミリーストーンのようなファンクのオケを当てはめることでフォークともロックとも演歌ともつかない世界となる。たぶんこのような手法は和田弘とマヒナスターズ「お座敷小唄」('54)(民謡のような歌に最新ビートドドンパのオケ)あたりまで遡れるのではないか。そう考えると「ティンバランド問題」とはひとつのヒットパターン、職人芸としての手法として受け継がれているものである、と言えるのではないか。そう考えると「らいおんハート」、「if」のチキチキと、宇多田、cero、折坂のポリリズムは「J-POPとは思えないビート楽曲」としてひとつに括れるかもしれないが、前者は「ヒットを要求される職人芸としてビジネス上の事情で取り入れられたもの」、後者は「単純にアーティストのビートへの飽くなき欲求としての実験」と別フォルダでくくるべきでがないか、とかオジサンは思ったりするのだ」

司会者「今後、そういう踏み込んだ論考もでてくるのではないでしょうか?」

kenzee「ていうことを考えたくなるくらいに面白い本なのだ。今、なにか考えたくなったりするような本とか映画ってあります?」

司会者「書いた人もさることながらこのblueprintという版元はレジーさんの「夏フェス革命」に続いてまた面白本をドロップしてきたわけでこの会社すごいヨ。ボクはどちらの本も読んだ人だけどいずれも日本における音楽文化について論じた本でベクトルは「フェス(興業)」、「音(音源)」と真逆だけど両方読むと今の日本の音楽とはどういうものか。ボンヤリしてたものの解像度が上がりますよ。で、真逆の本なのにこの二人の著書には共通項がある。どちらも「ファクトを重ねて書かれた本」ということだ。これはイベントの最後の質問コーナーでも仰っていたが、「音源」という事実から起こした論考なので極端な話、誰でも同じ結論になるはずだ、というようなことを話されていた。レジーさんの本も「夏フェス」を取り巻く変容を資料と実体験で起こしていった論考でまさにファクトフルネス世代、とでもよびたくなる作家を擁している。これは手短に言うとimdkmさんやレジーさんは音楽を語ることは科学だ、と言っているのだ。従来の音楽の語りとは「文学」だったんじゃないの?と。おそらくお二人は面識とかないと思うが同じ視点を持っている作家を見つけて、見事に一冊だしてしまう、っていう。理想的な作家、編集者、版元のプレーがここにある。「出版業界とかオワコン」とか言ってる人にも読んでほしい」
司会者「モチロン、2冊ともですよ!」

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