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ラブソングの危機を考える3

 単に、「モガ」や、レビューの女性ダンサーの露出具合などを描写したに過ぎない「エロ歌謡」のブームを経て、1931年(昭和6年)に発表された淡谷のり子「あなたのものよ」は「女性が性欲について歌う」という点において画期的であった。前掲書「ニッポン・エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影」によれば同年、同様の女性が主体となって性欲を歌う歌が続出したという。青木晴子「ねえ興奮しちゃいやよ」、天野喜久代「イミ深節」、水野昌子「誓ってね」、淡谷のり子「ネエあなた」、川田定子「キッスして」、中尾幸子「感じたわ」、春海綾子「ホテルホホ」など。タイトルだけで濃厚な内容は窺えるが、この手の女性が歌うエロ歌謡のブームはたった一年ほどで終息してしまう。翌、1932年以降エロがテーマのレコードが検閲されるようになったからである。過激なエロ内容や左翼思想が顕著なレコードは治安維持法第十条、同第十六条、刑法第百十五条(わいせつ物頒布罪)で取り締まられるようになった。このあと、戦後まで歌謡曲からエロが突然、姿を消すことになる。このあと、1936年ごろに「ねェ小唄」と呼ばれる、「あなたにすべてあげる」といった即物的な表現はないものの、甘く情感を込めた歌い方で、感情表現としてのエロ歌謡のブームがあったが、翌年、検閲対象となる。検閲官によれば「あたかも婦女子の嬌態を眼前に見るが如き官能的歌唱」とのこと。この1937年とは盧溝橋事件の年である。ちなみにエロ歌謡が大ヒットした1931年とは世界大恐慌のあおりで国内も不況の時代であった。このような社会不安を背景にエロ歌謡は爆発した。

 この構図がわたしにはモーニング娘。「LOVEマシーン」(1999年)の大ヒットとの相似形に見えるのだがどうか。「LOVEマシーン」もまた、90年代の構造不況を背景に、まるで場末のキャバクラ嬢のような露出過多の衣装のアイドル(一般人とほとんど見分けのつかないような)たちがヤケクソ気味に「ナイスバディ」「淫ら」といったエロワードを交えて歌う、いわばエロ歌謡の末裔であったと考えられる。


 戦前のエロ歌謡の特徴はパッと花開いたかと思うと、すぐに官憲の手によって検閲、発禁の憂き目に遭うことである。エロ歌謡にせよ、ねェ小唄にせよ、せいぜいブームは1、2年なのだ。戦後にもエロ歌謡は散発的に登場するが、これは発禁に遭うことがないかわりに1、2年で自発的に路線を変更してゆく、つまり自粛して終息するという傾向がある。たとえば先のモーニング娘。にしても明確にエロ路線に舵を切ったのはセカンドシングル「サマーナイトタウン」(1998年)からだが、1999年の「LOVEマシーン」以降、低年齢メンバーの加入、という事象も踏まえてかエロ歌謡から撤退する。今思えばモー娘がシングルでエロを歌ったのは「サマーナイトタウン」、「抱いてHold On Me!」、「LOVEマシーン」のみであった。また、山口百恵も「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」(ひと夏の経験)などのようにの広義のエロ歌謡の歌手であったといえるが、百恵エロ歌謡シングルは「青い果実」(1973年)、「ひと夏の経験」(1974年)、「炎の前で」(1975年)ぐらいで2年ほどの出来事だったのである。おニャン子クラブもまた、「セーラー服を脱がさないで」等でオナジミのエロ歌謡歌手であるが、そもそも活動期間自体が2年ほどなのだ。AKB48にも初期には「Dear My Teacher」(2006年)や「制服が邪魔をする」(2007年)といったエロ歌謡路線があったが、同年のブレイク以降、エロ歌謡路線はなくなる。戦前の淡谷のり子以来、どうも日本のエロ歌謡歌手のエロ期間は最大で2年が限度のようだ。(ところで淡谷のり子の凄さとは「ブルースの女王」とか言う以前に、宇多田のような意識高い女性とLOVEマシーンのような下品な女性を同時に演じたということではないだろうか)


 ところで日本が終戦を迎えたのは1945年だがエロ歌謡が息を吹き返すのは1960年代後半になってからである。青江三奈「伊勢佐木町ブルース」(1968年)などによって「ねェ小唄」に見られたような「色っぽい吐息」感情表現が復活することになる。この「アッハーン」的な色っぽい吐息はエロ時代のモー娘を最後に途絶えてしまったように思う。私見ではオートチューン(ヴォーカルトラックを機械的に補正するソフト)の普及と関係があるのではないかと思う。「アッハーン」とオートチューンとは相性が悪いはずである。また、初音ミクのような音声合成ソフトで「アッハーン」や嬌声を再現することも難しそうである。
 エロ歌謡の復活が終戦から20年以上もかかったのはひとえにレコード業界がエロ歌謡を排除したからである。レコード倫理協会(レコ倫)が発足したのは1955年のことである。以降、エロを目的としたレコードは規制されるようになった。


ところでラブはどうなったのか。見田宗介が定義した、近代的な恋愛観を歌にした恋の歌だ。
 エロ歌謡の検閲以降、歌謡界には歌謡曲の健全化を促す動きもあった。1936年(昭和11年)、ラジオ放送「国民歌謡」がスタートする。国民歌謡は正統派の健康な歌を紹介した。東海林太郎や藤山一郎などの声楽のプロが朗々とうたう、というコンセプトを確立した。さて、エロの淡谷のり子先生だが、翌、1937年から服部良一とのコンビで「ブルースの歌手」へと変貌する。37年に発表された「別れのブルース」は去ってゆく外国人の船乗りの男性への恋慕と失恋のせつなさを歌う。松島詩子「マロニエの木陰」などもこの年のヒットとなった。私見では、エロ目的ではない、現実的な女性の失恋や慕情を描いたという意味で、この1937年がJ-POP的ラブソングの誕生と考えている。これがのちの演歌を経て、ユーミンさん、宇多田、aikoまで引き継がれていったものと考える。無論、これ以前にも失恋をテーマにした楽曲はある。昭和初期の段階で「出船」、「君恋し」、「浪花小唄」、「時雨ひととき」、「影を慕いて」などである。「別れの~」「マロニエ~」との決定的な違いは淡谷、松島といったモダンガール、つまり海外志向の女性シンガーがそのキャラクター込みで海外志向の小道具(マロニエの木、メリケン波止場、マドロス)を織り込みながらパフォームした、という点にある。それは宇多田が「First Love」(1999年)において「タバコのflavor」(煙り、でも匂い、でも香り、でもなく)と表現したことにも似た、「バタくさい女性の失恋」の感覚が見て取れるのである。不思議に思うのは「男性の下半身直撃エロ歌謡」と「意識高い女性の海外目線恋愛ソング」はこの1937年以降、まるでライバル関係のようにお互いを盛り上げるという事象である。

 この1999年は、宇多田の「意識高いラブソング」(宇多田の歌唱の凄さのひとつに、flavor、や、You are always gonna be my loveといったサビは流暢なディクションで歌うが「ラブソング」は日本語発音というのがある)「LOVEマシーン」のようなエロ歌謡がしのぎを削った年である。また、音楽的にも日本語ラップの台頭、女性R&Bのブーム、ハイ・スタンダードを始めとするメロコア勢の活躍、くるりやナンバーガール等の新しいタイプのバンド表現、と音楽的にもバラエティ豊かな時代であった。これは1930年代後半にも見られた現象で、服部メロディーがメインストリームを走り、同時に洋楽(ジャズ、タンゴ、シャンソン、ブルース等)が流行する。古賀政男の演歌、都節、浪花節が盛り上がる。つまり、90年代後半によく似ているのである。この盛り上がりは日中戦争に突入するとシュリンクするが、90年代後半の盛り上がりもこのあと、民生用パソコンとmp3の普及でシュリンクする。

 ではユーミンさん的、宇多田的ラブソングが戦後、どのような道行きで形成されていったか。また、小沢健二のラブソングはこの戦後ラブソング史のなかでどう位置づけられるか。時代を戦後にフォーカスしてみよう。

 ラブソングはエロ歌謡より早く息を吹き返すが、戦後5年ほど待つ必要があった。つづく。

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