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ラブソングの危機を考える5

 引き続き、男性歌手が女心を歌う歌謡曲について考える。
 思いつくままにこの「なりきり歌謡」の曲目を記してみよう。

やしきたかじん「やっぱ好きやねん」、ぴんからトリオ「女のみち」、殿様キングス「なみだの操」、小林旭「昔の名前ででています」、黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」、中条きよし「うそ」、菅原洋一「今日でお別れ」、内山田洋とクールファイブ「そして神戸」、福山雅治「squall」、EXILE「Ti Amo」、徳永英明「レイニーブルー」、山下達郎「エンドレス・ゲーム」、チャゲ&飛鳥「ひとり咲き」、長渕剛「巡恋歌」、松山千春「恋」、ジェロ「海雪」、角松敏生「You're My Only Shinin' Star」、Kinki Kids「愛のかたまり」、南こうせつとかぐや姫「神田川」、敏いとうとハッピー&ブルー「わたし祈ってます」、ポルノグラフィティ「サウダージ」・・・

これらはすべて、「男性が女性になりきって歌う歌謡曲」である。こうして並べてみると壮観である。確かに時代もバラバラ、ジャンルもバラバラ、歌手の年代もキャラクターもバラバラである。演歌、ムード歌謡からポップス、ジャニーズまである。しかし、全体に流れる共通項のようなものも感じられる。
 全体的に暴力的なイメージの強い歌手が多いように思うのだ。あるいは暴力を背景にしていると感じさせるような風貌というか。たとえば宮史朗自体に暴力的な威圧感はなくとも彼の背景にそれを感じるし、これは内山田洋とクールファイブ、菅原洋一にも言える。長渕や松山はフォーク出身でありながら、やがて暴力的な風貌へと変化していったという点で共通している。エグザイルはエグザイルである。では、


「暴力的な風貌の歌手は女になりきって歌う、という慣行が日本の歌謡曲にはある」


と定義してみる。たちまち例外が登場する。南こうせつにはまったくそのような暴力性を感じない。山下達郎や福山雅治をどう捉えるかも難しい。また、別の例外もある。世間的に暴力的な雰囲気が魅力の男性歌手の2大巨頭といえば長渕剛と矢沢永吉であるが、長渕には「巡恋歌」をはじめ、多くの「なりきり歌」があるが矢沢には1曲もないのである。わたしはキャロル時代までさかのぼり、矢沢歌唱楽曲について調査したが、やはり「なりきり歌」は存在しない。よくスポーツ新聞などで「矢沢や長渕のような」といった雰囲気のみで雑にまとめられることの多い両者だが、彼らは別のジャンルと考えるべきなのかもしれない。


「中性的なイメージの歌手は「なりきり歌謡」を歌わない」


 この定義はすでに南こうせつの存在によって否定されている。ところで中性的、または巷間、ゲイと噂される歌手に「なりきり歌謡」歌手はいないようだ。たとえばラブソングの大家の槇原敬之だが、この28年のキャリアで女性言葉の楽曲は存在しない。(「Listen To The Musicシリーズにおける中島みゆき、松任谷由実カヴァー等を除く」)平井堅もまた、そのような噂のある歌手だが、やはり「なりきり歌謡」はないのである。しかし彼らは洋楽風のポップスの歌手だから、そのような作法がないのだ、という指摘は誤りである。それでは山下達郎、角松敏生、福山雅治、エグザイルを説明できない。ただし、ひとつ明確に言えることがある。


「渋谷系の歌手は「なりきり歌謡」を歌わない」


90年代初頭に勃興した渋谷系ムーブメントだが、その代表と呼ばれる男性歌手にカジヒデキ、小沢健二、コーネリアスがいるが、彼らは一様に決してなりきり歌謡を歌うことはないのである。ただし彼らは「女言葉の歌詞」を書く仕事はしている。(※小沢健二→渡辺満里奈プロデュースは有名だが、小山田圭吾はキョンキョン楽曲に作詞作曲している)彼らが女言葉を使用するのは女性歌手に楽曲を提供する、プロデュース業の時だけである。その不思議なルールを設定したのは誰なのかわからないが、ここにもオリジナル・ラヴの田島貴男のような平然と女ごころを歌う例外が存在する。このように一言で切り分けることができないところがこの研究の複雑さを物語っている。
 しかし、以上のことから大きく、次のようなことが言えそうである。日本には女ごころを情熱を込めて歌うタイプの歌手と自身では歌いたくない、女性歌手に提供する分には問題ない、とする歌手が存在するということである。


 ところでこのような男女が交差する日本の歌謡曲についてはすでに先行研究がある。社会学者の中河伸俊は「ジェンダー交差歌唱(Cross Gendered Performance,CGP)」と呼んで比較文化研究の対象であると指摘している。


流行歌におけるジェンダー(性別)交差歌唱は、私たちにとって、見慣れた現象だといっていいだろう。それは、とりわけ演歌と呼ばれるジャンルによくみられるが、ひと昔前のいわゆるニューミュージックや昨今のJポップもそうした歌唱と無縁ではない。しかし、私たちが自明視している光景を異化する「外からの目」を通して眺めるなら、それはグロテスクで不可思議な出来ごとに変貌する。(中略)筆者の主に米英のポピュラー音楽についての知見の範囲でも、男が”女の歌”を歌う、もしくは、女が”男の歌”を歌う歌唱の事例を挙げるのはむつかしい。(中略)いいかえれば、流行歌の世界ではそのことを指すことばもとくにないほどありふれた事柄であるジェンダー交差歌唱(cross-genndered performance;CGP)は比較文化的な視点からみればじつは、日本のポピュラー音楽のきわだった特徴の一つだといえそうだ。にもかかわらず、日本のポピュラー音楽研究者はこれまでそれを、きちんとした検討の対象にしてはこなかった」(中河伸俊「転身歌唱の近代−流行歌のクロス=ジェンダード・パフォーマンスを考える」)(北川純子編「鳴り響く〈性〉日本のポピュラー音楽とジェンダー」勁草書房)


前回、欧米のポピュラーソングにおいてクロスジェンダード現象は起こらないと述べた。女性向けに書かれた歌詞であってもSheをHeに変えることでその歌手のジェンダーの歌に変化してしまうと。これは日本語における女言葉、「~だわ」、「~のよ」、「~かしら」とった助詞によって主体をジェンダー化するような表現が英語をはじめとする欧米の言語にはない、ということに原因があると考えられる。
 いずれにせよ、日本には転身歌唱(CGP)という欧米には見られない固有の文化がある。わたしたちが「ベタベタ」とか「コテコテ」とか「ミズっぽい」とか「ドメスティック」と呼ぶ、目に見えない日本人固有の感覚のヒントがここにあるはずである。この感覚はある傾向の人種にとっては嫌悪感を抱かせ、存在を否定されることもある。たとえば広告系業界人や、洋楽を専門とする音楽業界人など都市の先端的と言われる世界の人々の視界には入らないことが多い。つまり「矢沢が視野に入ってくるのは笑って許すけど、長渕だけは入ってこないで」という感覚が形成されることになる。このような人種を「カタカナ職業かもしらんが、しょせん地方出身者のくせにオシャレぶりやがって」と非難するのは容易い。むしろ、私にはこの業界人に多く見られる選民的な感覚そのものが興味深い。それは地方出身、つまり「日本のドメスティック(土着性)」がどのようなものであるかを肌で認識していないと身につかない感覚だからである。たとえばアメリカ人の目から見て矢沢と長渕ではほとんど音楽的な差異の見分けがつかないと思われる。

 とくに長渕は未だにフォークの文脈で語られることの多い歌手だが現在、世界的に見ても高水準と言える強靭なバンドアンサンブルを有している。おそらく参考にしたのはブルース・スプリングスティーンのEストリート・バンドであろうが、本家に肉薄するようなレベルに達している。(2015年富士山麓オールナイトライブ音源を参照していただきたい)
 つまり外国人の目から見れば長渕は「優れたブルース・スプリングスティーンの日本人クローン」にしか見えないはずだ。しかし、日本人の目から見た場合、ある人種からは嫌悪を抱かせるほどのパワーがあるのだ。これは長渕に限らず、松山千春やシャ乱Qや演歌、ムード歌謡全般にも言えることで、この稿はこの嫌悪感の正体を探っていくものである。この正体を探ることではじめて日本の流行歌史の総体を見渡すことができるはずである。
 どういうことか。上記の長渕や松山千春やムード歌謡を日本の音楽ジャーナリズムは決して取り上げることはない。ミュージックマガジンのような代表的なジャーナリズムにおいても長渕は取り上げられないのである。しかし井上陽水や吉田拓郎は、あるいは岡林信康や遠藤賢司や加川良や友部正人などのURC系のフォーク歌手は取り上げられる。ここにどのようなジャッジが存在するのか。無論、これはミューマガ批判ではない。むしろ、このジャッジで切り捨てられた(しかし世間的には大きな支持を受けた)ある感覚をもった音楽のなにを支持され、なにがある人々に嫌悪を抱かせたのか。この切り捨てられたものを検証していこうと思う。


 まず、CGPを考えるうえでまず、考えるべきはすべてのCGP楽曲の共通項、「女ことば」とはなにかということだ。CGPを定義するならこうなる。「女言葉で書かれた歌詞を男性歌手が歌うパフォーマンス」であるということだ。ここで着目すべきは「女言葉で書かれた」という部分である。書き手は男性でも女性でも構わないが「~てよ、~だわ、~かしら」といった女言葉が使用されていなければならない。つまり女性作詞家が「~なんだよ」などと、女言葉を使用しなかったものを男性が歌ってもCGPとは言えないのだ。ところで冒頭のCGP楽曲は誰が書いているのだろうか?


「やっぱ好きやねん」→鹿紋太郎(男)、「女のみち」→宮史郎(男)、「なみだの操」→千家和也(男)、「昔の名前ででています」→星野哲郎(男)、「ラブユー東京」→上原尚(男)、「うそ」→山口洋子(女)、「今日でお別れ」→なかにし礼(男)、「そして神戸」→千家和也(男)、「squall」→福山雅治(男)、「Ti Amo」→松尾潔(男)、「レイニーブルー」→徳永英明(男)、「エンドレス・ゲーム」→山下達郎(男)、「ひとり咲き」→飛鳥涼(男)、「巡恋歌」→長渕剛(男)、「海雪」→秋元康(男)、「You're Only Shinin' Star」→角松敏生(男)、「愛のかたまり」→堂本剛(男)、「神田川」→喜多条忠(男)、「わたし祈ってます」→五十嵐悟(男)、「サウダージ」→ハルイチ(男)

無作為抽出したつもりだったのだが、20曲中、女性作詞家の手によるものは「うそ」の山口洋子1曲だけである。そもそも女性作詞家が女性が主人公の歌詞であってもほとんど「てよ、だわ、かしら」のような女言葉を使用するケースは少ない。何度も登場願って申し訳ないが宇多田「First Love」の主人公は失恋した女性と考えられるが、いわゆる女言葉は使用されない。「あなたはどこにいるんだろう」のようなジェンダーが明確でない作詞法である。これは宇多田と同時代のシンガーソングライター、椎名林檎や浜崎あゆみにも見られる傾向で、下の世代の西野カナにも受け継がれているようだ。また、上の世代の松任谷由実、中島みゆきなどにも同様のことは観察される。例外的に竹内まりやが「てよ、だわ」使いの作詞法で山口洋子や阿木燿子との近似性を感じるが、概ね日本の女性シンガーソングライターは「てよ、だわ」と使用することは少ないようだ。つまり、「てよ、だわ」といった女言葉は男性作詞家が好んで使用してきたのだとわかる。
 わたしが関西人だからなのかもしれないが、実際に「てよ、だわ、かしら」を使用する女性というのを実生活でまず見たことがない。では東京では女性はそのような言葉使いをするのだろうか。たとえばテレビドラマや日本映画ではどうか。これもやはり宇多田のような「~だよ、~てさ」といったほぼ男性同様の助詞を使用していることが観察される。ただし、外国映画の字幕においては現在でも女言葉が健在である。すでに現実でもドラマでも女言葉は使用されていないのである。それでは現代において女言葉が使用される現場とはどういうものか? たとえば小説はどうか?


「こんなに暑くなるとは思わなかったわ。まるで地獄ね。」
「地獄はもっと暑い。」
「見てきたみたいね。」
「人に聞いたんだ。あんまり暑いんで気が狂いそうになるともう少し涼しいところにやられるんだ。そしてそこで少し持ち直すと、またもとの場所へ戻される。」
「サウナ風呂ね、まるで。」
「そんなもんだ。でも中には気が狂って、もうもとには戻らないやつもいる。」
「そんな人はどうするの?」
「天国に連れてかれるのさ。そしてそこで壁のペンキ塗りをやらされるんだ。つまりね、天国の壁はいつも真白でなくちゃならないんだ。シミひとつあっちゃ困るのさ。イメージが悪くなるからね。そんなわけで毎日朝から晩までペンキ塗りばかりしてるんで大抵の奴は気管を悪くする。」(村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫)

ここには男女の会話が描かれている。村上らしい抽象的なやりとりが描かれるが、「と、僕は言った」とか「と言って、彼女は笑った」のような誰によるものかの説明はない。後年の村上作品はマメに説明するようになるが、このデビュー作ではまだ書き込みは少ない。それでも読者はこれが男女のどちらが発した言葉か明確に区別がつく。女性の方が女言葉を使用しているからだ。「思わなかったわ」「みたいね」の語尾によって無意識に男女を判別している。これは日本語で書かれた小説の大きな特徴でもある。ちなみに海外小説はこのような男女の会話をどのように処理しているかというと、「He Said」や「She Said」のように説明することが多いようだ。後年の村上小説がマメに指示するようになったのは翻訳仕事の影響かもしれない。いずれにせよ説明が省けるのは日本語小説の特性である。これは80年以上前に谷崎潤一郎がすでに指摘していることでもある。


恐らく皆さんは、「通ふんだからね」と書いてあれば男の声を想像し、「通いますのよ」と書いてあれば女の声を想像するでありませう。斯く考えて参りますと、これらの音に依って作者の性を区別することさへ出来るのであります。此の、男の話す言葉と女の話す言葉と違ふと云うことは、ひとり日本の口語のみが有する長所でありまして、多分日本以外の何処の国語にも類例がないでありませう。(谷崎潤一郎「文章読本」谷崎潤一郎全集18巻(中央公論社))


そう考えると「風の歌を聴け」とは、「まるで海外小説のような乾いた文体」といった評価が定まっているが、正確には「海外風にデザインされた、日本語小説の構造を使用した文学」とか言うべきなのかもしれない。
 ところで次の会話文も日本語で書かれた小説ですが、村上作品とはだいぶ趣が違うことに気づく。


「げっ、最悪。また雪積もるなんて困る」
生活に疲れた女の声をだす。
「雲厚いし、またしばらく降るかもね」
遠藤は空を見上げてつぶやく。
「最悪。超困る」
車に乗り込み遠藤がエンジンをかけると、さっきの曲のつづきが流れた。
「ぼくは別にいいよ」
「は? なにが?」
遠藤の顔を見る。横顔。見ても、全然ときめかない。
「迎えに行くの。雪が積もっても迎えに行くよ?」
「ああ。うん・・・・・・」
遠藤の車はそのまま県道沿いにあるラブホテル街へと向かう。明らかに直行しているのに、「行く?」なんて下手に出て言うところがまたムカつく。
 最近の遠藤が言う「ごはん」は、セックスとワンセットなので、こうなることはわかっていけれど。
「どっちでもいい」
外はクソ寒い。車で家に帰れるなら、もうなんでもいい。(山内マリコ「君がどこにも行けないのは車持ってないから」幻冬舎文庫「ここは退屈迎えに来て」収録)


ここでも男女の会話が描かれているが、「」のなかだけで男女を判別するのは困難である。無論、クルマを運転している人物、遠藤が男性で、グズっているのが主人公の女性なのだが、これは説明があって、わかることである。この小説では女性は女言葉を使用しないのである。これは現代小説において女性作家に共通して言えることである。たとえば角田光代、柴崎友香、絲山秋子、綿矢りさ、金原ひとみ、村田紗耶香あたりにまで共通している。
 つまりここでも歌謡曲同様、「女性作家の手にかかるとむしろ、女言葉は使用されなくなる」の法則が観察されるのである。


 ・女言葉は実際の女性や、女性作家はほとんど使用しない。
 ・現代において使用されるのは男性の手による男性向けのコンテンツにおいてである。
 ・海外においてこのような事象は存在していない。


 いったい「女言葉」の「女」とは誰なのか。そして歌謡曲において「女言葉」が使用されると「ミズっぽく」感じられるのはなぜか。女言葉で歌う歌手と歌えない歌手がいる理由は? そして山下達郎のような「洋楽に影響を強く受けた」とされる音楽にCGPが存在する意味とはどういうものか。とくに山下達郎は「切り捨てられた歌謡曲」を考えるうえで交差点のような存在だ。CGPのような「ミズ」を平然と受け入れながら、「元祖渋谷系」と名指され、長渕のように嫌悪されることもなく、大ヒット歌手であるという、ありえないような存在である。
 次は、CGPの「女」がなにを演じ、どのような役割を担ってきたか、それをナゼ、男性(イカツイ風貌の)がなりきる必要があるのか。そして、イカツイ風貌の者が多い日本語ラップのシーンにおいてCGPがなぜ、発生しないのか。(注1)そもそも「女言葉」はどこからきたのか。というところを探ってみよう。つづく。

注1・・・「男性ラッパーが女心を女言葉でラップすることはない」か? 長年ありえないと思っていたことが2017年に起こった。大阪在住のラッパー、SHINGO★西成の5thアルバム「ここから・・・いまから」収録の「あんた」がまさに「CGPラップ」なのである。裏切られても「あんたがエエわ、エエわ」と女々しく辛い恋について歌う。まさに殿キンやたかじんを経てEXILEに受け継がれた「おんなうた」の世界である。もしかするとここを起点に日本語ラップのCGP化が起こるのかもしれない。かつてフォークやロックのシーンで起こったように。ただし、本場のUSのヒップホップにおいて黒人のラッパーが女性の立場に立って女々しくラップする、などということはありえないのだが。

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