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シャ乱Qによる、「女々しい男」の発明(ラブソングの危機を考える6)

CGP歌謡の主人公は女性である。そして、主に恋愛について歌う。そう、CGPの主人公がミスチルのような人生論や自己実現話をすることはまずない。100%、恋愛なのである。そしてその多くは失恋についての歌である。どのように失恋が描かれているか? CGPの代表曲からいくつかをピックアップし、検証してみよう。


・「やっぱ好きやねん」('86)(やしきたかじん、作詞・鹿紋太郎)→かつて恋人であった男性から、一度別れを告げられている。しかし、その男、「平気な顔して」やり直そうと自分のもとへと戻ってくる。どうやら目当ての女に振られて戻ってきたようだ。さらに自分との別れを「過ぎたこと」だと笑ってさえいる。許せない行為だが、「やっぱ(この男が)好きやねん」。つくづく自分はめでたい女だと思い、自分で自分を笑う。
女性像・・・・・・驚異的な寛大さと包容力でフザけた男の行為を許す。この期に及んでもこの男を一途に惚れている。どこか水商売の雰囲気が言葉の端々から感じられる。男にとって大変に便利な女性であることは間違いない。

・「女のみち」('72)(ぴんからトリオ、作詞・宮史郎)→「わたし」がヴァージンを捧げた「その人」。あなただけよとすがって泣いたが、「わたし」は捨てられた。それでも「その人」が忘れられない。こんな辛い思いをするのが女のみちなのか。でも、いつかは女の幸せをつかみたい。
女性像・・・・・・「やっぱ好きやねん」同様、とにかく男に一途な未婚の女性。この歌の「その人」とは相当な色男かヤサ男でなければ成立しない。現代で言えばイケメンホストのような。しかし、この曲はどう見ても3枚目キャラの宮史郎がダミ声で歌うのである。どうもCGP歌手とは、その曲のドラマにはには直接コミットしない、語り部のようなスタンスのようだ。ならば彼らはどうして一様に粗暴な雰囲気であったり、水商売の世界を感じさせる雰囲気を湛えているのだろう。

・「昔の名前ででています」('75)(小林旭、作詞・星野哲郎)→水商売の女性が全国の繁華街を流浪する様子が描かれる。京都にいた時は「忍」と名乗り、神戸では「渚」と名乗っていた。さまざまな源氏名を名乗ってきたがハマ(横浜)の酒場に戻ってきたときから「あなた」が探してくれるのを待つため、昔の名前「ひろみ」ででている。「あなた」が見つけてくれるのを待っている。
女性像・・・・・・これもおそらく未婚と思われる水商売の女性が「あなた」だけを一途に愛するものの、その思いが達成されない様子をコワモテ歌手が語り部スタンスで歌い上げるという構造。ここで私は「酸いも甘いも噛み分けたアウトローな雰囲気の語り部がメロドラマを語る(ダミ声とかで)」という文化のルーツに浪曲があったのではないかとフト思い至るがここではその考察はひとまず置いておこう。

・「ラブユー東京」('66)(黒沢明とロス・プリモス、作詞・上原尚)→王道のCGPストーリーラインである。「あなただけが生き甲斐だった」「でも、明日からはあなたなしで生きてゆかなければならない」「いつか女の幸せをつかむわ」
女性像・・・・・・典型的なCGP女子である。「あなたへの一途な恋、実らず。でも、幸せ見つけるわ」という展開。そして「七色の虹」「東京」というワードから繁華街という背景を匂わす。しかし彼女たちの人生は恋愛ばかりだ。

・「Squall」('99)(福山雅治、作詞・福山雅治)→演歌続きで胃がもたれてきたのでポップス曲をピックアップしてみたい。さすがに福山ぐらいの世代となると演歌世代と違って「あなたが生きがい」のような悲壮な内面の描写は影をひそめる。そのかわり、まさに(作中にあるような)「ポラロイド写真」のように情景を切り取ったような乾いた作風となる。とはいえ主人公の女性が(どうも水商売従事者ではなさそう)「あなただけ」「もっと一緒にいたい」と男に都合がいいのは従前のCGPと同じだ。このCGP歌詞の特徴は極限まで女言葉の削ぎ落としに成功している点である。数少ない女言葉は「めぐり逢えたの 夢に見てたの」のみでこの少なさがむしろCGP的緊張感を作っている。「うれしくなるよ」「わかってほしい」といった実際の女性らしい言葉遣いをCGPに織り込んでいる時点で福山はCGP界のリアリズム作家と言えるだろう。

・「愛のかたまり」('01)(Kinki Kids、作詞・堂本剛)→あなたは私を電車に乗せるのを嫌がる。私はあなたと同じ香水を街中で感じるとついて行きたくなってしまう。自分の言葉や仕草はあなただけのためにある。クリスマスなんていらない。日々が愛のかたまりだから。 
女性像・・・・・・これは画期的なCGPソングかも知れない。私は戦前からのCGP曲をかなりチェックしてきたと自負しているが、「今、まさに恋愛が盛り上がってる最中です」という主張を女性の立場で男性作詞家が描き、自身でパフォーマンスしたCGP曲はあとにも先にもこれだけかもしれない。CGP曲なのに主人公の女性が傷つかない。しかも、主人公の内面だけで終始するのも特徴的だ。風景描写といった福山的な感覚が微塵もない。また、福山とは逆に全面的に女言葉がちりばめられる。この堂本剛という作家は「逆福山雅治」というべきセンスがある。「Kinki Kidsのオシャレなほう」のイメージをひっくり返す独特のセンス。意識的なCGP批判だとしたら堂本剛という男、天才である。

・「神田川」'(73)(かぐや姫、作詞・喜多条忠)→二人で行った横丁の風呂屋、いつも私が待たされた。あなたはよく私の似顔絵を描いた。いつも似てないの。窓の下には神田川・・・・・・この小さな幸せがいつか壊れるのではないかと、その優しさが怖かった。
女性像・・・・・・「全共闘運動に代表される政治の季節のあとの閉塞感を描いてヒットした」などと評されることの多い曲。これは大ヒット曲にも関わらず、CGP界においては例外的な一曲でもある。まず、主人公の二人にまったく水商売的な背景が感じられない。つまり、背景に暴力的な雰囲気が感じられないのだ。むしろそこそこ学もありそうな気配である。もしかすると二人とも学生運動的な過去を持っているのかもしれぬ。そして、肝心の語り部たる歌手、南こうせつ自身、まったく暴力感のない中性的なキャラクターなのだ。そこに「小さな石鹸」や「二四色のクレパス」そして「神田川」といった小道具が散りばめられ、描写は内面より情景に重点が置かれる。どこか福山的な感覚の源流を見ているようだ。一応、恋愛の最中が描かれ、未だ主人公は傷ついてはいないところも福山的である。すると「暴力と内面描写」が演歌CGPで「非暴力と風景描写」がニューミュージックCGP、と考えてもよいのだろうか。少なくとも「神田川」と「Squall」はひとつの系譜で繋がっている。

・海雪('08)(ジェロ、作詞・秋元康)→あなたを追って凍える日本海を臨む出雲崎の岸壁までやってきた。この愛が届かないのなら、いっそ身を投げようか。あなたに愛されても叶わぬのならいっぞ殺してほしい。女性像・・・・・・王道のCGP。というより王道CGPのパロディのようだ。雪降る日本海。岸壁。身投げ。過剰だ。無論、黒人シンガーが歌うならここまで過剰でないと成立しない。結果、良質なCGPのパロディになっている。

 今しがたまで「CGPは失恋や、男に騙されてばかりのワンパターン」だと思っていたが、結構幅広いシチュエーションや人物を描いているとわかる。とくに堂本剛の作家性は際立っている。いつもCGPの女性が男に捨てられたり、傷ついたりしているわけではないのだ。
 しかし、すべてのCGP楽曲に共通しているのは「男が女に裏切られることはない」ということである。無論、女性が主体となる歌で「あの男を捨ててやった」というような歌謡曲はありえないわけで、CGPは基本、女が男にいいようにされる、というテーマを繰り返し描いているといえる。


 今、ふと思ったのは90年代のJ-POPにCGP歌謡はほとんどみられなくなる代わりに、シャ乱Qの「ズルい女」('95)などに象徴的な「女に捨てられる、情けない男」の登場についてである。これは転倒したCGPなのか? 少なくともシャ乱Qの登場以前に「男性歌手が女にすがる、情けない男」を歌う歌手はいなかったと思うのだ。J-POP以前(J-POPという名称は1988年に名付けられた。後述する)歌謡曲とは常に男性上位であり、恋愛においては「女が男についていくもの」という大前提のルールが存在していた。無論、水前寺清子「365歩のマーチ」や美空ひばり「柔」のような女性が男性にハッパをかける、というヒット曲は存在するが、いずれも恋愛絡みでない楽曲の話である。
 私はCGP史というものを、「80年代までは一定の存在感を示していたが、90年代に入り、コムロ、ミスチル、ドリカムの時代になった途端に影をひそめた」という歴史観で捉えていたのだが、シャ乱Qによる「転倒CGP」によって実は生きながらえていたのかもしれない、と思うようになった。これはのちのゴールデンボンバー「女々しくて」にまで引き継がれていったと考えられる。
 シャ乱Q以前に「女々しい男、情けない男」は描かれなかったのだろうか? 「ズルい女」レベルに女々しい男というのがちょっと思いつかない。辛うじてヒロシ&キーボー「3年目の浮気」において「3年目の浮気ぐらい大目に見てよ」と調子に乗っている男性ぐらいが女々しいの限界のような気がする。とはいえ、彼は既婚者であるのでCGP議論の埒外である。そう考えると「ズルい女」の転倒CGPは画期的な発明だったのかもしれない。それにしても彼らは(というかつんく♂は)いかにして転倒CGPを考案するに至ったのか。もともと彼らは演歌歌手でもムード歌謡出身でもない、バンドブーム期に結成された、典型的な中高生向けのロックバンドとしてスタートしている。つまり、CGPの背景的要素、夜の街と暴力の雰囲気、といった風俗からもっとも遠いところからスタートしている。実際、デビュー曲「18ヶ月」('92)においても男女が別れたあとの男性側の心情が描かれているのだが、比較的男性側が優位だったと思われる関係が描かれている。(欲しい時には抱くだけ抱いて 悲しい時には泣くだけ泣いて、こんなに愛してたって終わりがくる あなたの夢がかなったら私の夢、かなわない)というあたりに主導権が男性側にあったとうかがわせる。「18ヶ月」の続編と思われる「上・京・物・語」('94)でも「男性の上京によって二人の恋愛は終わる」という俯瞰的な目線の歌詞(作詞はドラムのまことの手による)で、上京という選択をするのは男性のほうだ。この2曲のテーマ「男性の上京によって二人の愛は終わる」をさらに発展させたものが同年のヒット、「シングルベッド」('94)である。ここに、これまでになかった注目すべき心情がはじめて描かれる。「流行りの歌も歌えなくて ダサイはずのこの俺」という自己卑下の心情である。シャ乱Q楽曲において「自己卑下」を描いたのはこの曲からである。この心情はのちの仕事、モーニング娘。「LOVEマシーン」における「あたしゃ本当 ナイスバディ 自分で言うくらい タダじゃない?」などにも引き継がれていく。
 無論、歌詞における「自己卑下」表現は決して珍しいものではない。たとえばラップ詞においても卑下の表現は存在する。だが、最終的に「(自己卑下を経て、)だがスキルじゃ誰にも負けねえ」のような自己肯定に着地する。というより「自己肯定」はほとんどヒップホップにおけるマナーなのである。しかし、シャ乱Qの自己卑下は、肯定されることなくそのままエンディングを迎える、という点において他のものとは違う。それはかつてのCGPマナーでもある。そして次曲「ズルい女」('95)で「女々しい、情けない男」の転倒CGPが完成する。
 それにしてもなぜ、シャ乱QはCGPではなく、「転倒CGP」を選択したのだろう。当時、近田春夫はシャ乱Qをこのように評している。現在も続く、週刊文春のJ-POP批評コラム、「考えるヒット」において、ナゾの存在であると指摘している。

 シャ乱Qってなんかナゾだよね。色々と考えて、私は「敏いとうとハッピー&ブルーにめいっぱいディストーションかけたもの」という結論に至りました。(中略)つまり、ムードコーラスグループを存在レベルですごーく歪ませるとシャ乱Qになるんじゃないか、とあえてジャンルに名前をつければ、ハードコアムード、なんてところでどうすか?」(1997.5.29.)


近田の見立てはこの時点でほぼ間違ってはいないが、ではムード歌謡らしく順当にCGPを歌わなかった理由がわからない。さらにもともと、CGP歌手であった、チャゲアスや南こうせつや谷村新司などが90年代にはすっかりCGPを歌わなくなった事象についてもよくわからない。やしきたかじんが辛うじてCGPシングルを90年代に細々と切っていたが、そもそもたかじんの歌手活動自体が90年代には停滞していく。
 つんく♂のアイデアのなかに「男にすがる、女々しい女」のイメージがあったことはのちのモー娘「サマーナイトタウン」「抱いてHOLD ON ME!」で確認できる。(これらは女言葉で書かれた、女々しい女の心情であって、あと男性歌手が歌えば、完璧にCGP曲の要件を満たすことができたのだ)
 転倒CGPの生命力は存外に強い。ゴールデンボンバーの代表曲「女々しくて」('09)のPVの冒頭、女性に土下座して謝る男性が登場する。そして女性は土下座男性に向かって「オメエ、女かよ!」と吐き捨てる。明確に転倒CGPを意図した楽曲であり、この現代においても転倒CGPがヒット曲として成立することを示した。


 それにしても転倒CGPとはどういうことか? 大抵のJ-POPのヒットは過去のヒットとの対照関係にある。たとえば第3回で述べたように宇多田「First Love」('99)は「バタくさい女性が意識高い失恋を歌う」という点で淡谷のり子「別れのブルース」('37)と対応している。「LOVEマシーン」や「アゲ♂アゲ♂EVERY騎士」などは田端義夫「ズンドコ節」や、北島三郎「ブンガチャ節」のような「シモネタ混じりのヤケクソパーティーソング」の系譜と捉えてよさそうである。
 しかし、女性に弄ばれてもまだ、すがって泣きつくような女々しい男、というのはどう考えてもシャ乱Q以前には見当たらない、対照関係がないのである。


 これは「女言葉」というところから考えないとダメのようである。つづく。

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