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「シティポップ」の中でもCGP派とノンCGP派がいる。売れるのはCGPのほう(ラブソングの危機を考える15)

 (↑「山下達郎 フリー素材」で検索したらこんなのがでてきた。どういう意味か?)


 今回は山下達郎の歌唱がいつごろからクドくなっていったかについて考える。
 そもそも山下達郎とは世間的には「都会的な音楽」と理解されている。つまりヤクザを演じたり、ドロドロの恋愛を女性の立場から描くような長渕剛などの音楽とは真逆の音楽と一般には捉えられている。

 烏賀陽弘道「Jポップとはなにか」(岩波新書)は現在のJポップと呼ばれる日本語の流行歌の潮流を考えるうえで様々な示唆を与えてくれる好著だが、このなかに洋楽主体のFM局、J-WAVEのなかで邦楽をかけるコーナー(Jポップ・クラシックス)を発足させるにあたって、どんな歌手の曲なら良いか、当時のJ-WAVEの審査基準について調査する場面がでてくる。当時の関係者によれば実は、明確な基準というものはなかったようだ。欧米のポップスと並べて聴いても違和感がない、遜色がないことが条件だったということだ。


「まず、演歌やアイドルはダメ。サザンオールスターズ、松任谷由実、山下達郎、大滝詠一や杉真理はいい。が、アリスやチャゲ&飛鳥、長渕剛はちがうだろう、というふうに感覚的に決めていった」チーフ・プロデューサーだった斎藤日出夫はそう振り返る。「洋楽と肩をならべることができる、センスのいい邦楽」「洋楽の何に影響を受けたかはっきりわかる邦楽」彼らの言葉を借りるとそういう表現になる。(前掲書)


この斎藤の発言はCGP研究のうえでも興味深い。斎藤が感覚的にジャッジを下したアリスやチャゲアス、長渕はCGPを歌う歌手であり、大滝や杉はCGPを歌わない歌手である。斎藤はJ-WAVEのオシャレイメージを考えるうえで直感的に浪曲の匂いのするものを排除したのである。このJ-WAVEの「浪曲感の追放」施策は1年遅れで1989年6月に開局したFM802にも受け継がれ大阪出身のバンドにも関わらずシャ乱Q(注1)などが追放された。
 このようにメディアも含め、世間は山下達郎とは洋楽と並べても遜色のない、浪曲成分のない、都会的な音楽と認識しているのだ。また、山下達郎は一般に「シティ・ポップ」にカテゴライズされる歌手でもある。「シティ・ポップ」ブームとはどういうものかについてスージー鈴木「1984年の歌謡曲」(イースト新書)の中で簡単にまとめられている。


 この言葉(シティ・ポップのこと)、確か84年前後に、少しだけブームとなった言葉だと記憶するが、定義はかなり曖昧であった。(当時の記憶を辿れば、「稲垣潤一、杉山清貴、山本達彦などのイケメンシンガーによる都会派楽曲」みたいな感じだったと思う)。そこで遅まきながら、ここで独断の定義をするならば、「東京人による、東京を舞台にした、東京人のための音楽」。それが乱暴すぎるとすれば、東京の横に「(註)横浜と湘南を含む」と付記する。都会的で、大人っぽく、そしてカラカラに乾いたキャッチコピー的歌詞と、複雑なアレンジとコードを駆使した音楽。(前掲書)


 この80年代初頭にシティ・ポップブームが起こった原因としてはウォークマンとカーステレオの普及が挙げられる。80年の大滝のロングセラー「A LONG VACATION」と82年の山下の「FOR YOU」は「80年代前半のカーステレオ占拠率がもっとも高かった1枚」とのこと。
 ことほどさように山下といえば「カーステでかける、都会的、オシャレ、シティ」の印象が、少なくとも80年代には強かったようだ。
 ただし、本稿のCGP研究はこのような常識に疑義を投げかけるものである。
 たとえばJ-WAVEの感覚的なジャッジだが、長渕はともかく88年頃といえばチャゲアスはかなりサウンド志向、歌詞の面でも感覚志向が進んでおり(前回を参照のこと)すでにユーミンさんなどと並べても違和感のないサウンドプロダクトとなっていた。また、88年、89年の時点ではすでに山下の歌唱の浪曲化は進んでおり、自作のCGPのレパートリーも増加している時期だったのである。つまりJ-WAVEジャッジとはイメージ先行の場当たり的なもので実際の音で判断しているとは考えられないものといえるのだ。長渕の「巡恋歌」がダメなら山下の「甘く危険な香り」「エンドレス・ゲーム」もダメでないとおかしいし、(いずれもCGP)杉真理がオーケーなら88年頃のチャゲアスもオーケーであるべきなのだ。
 ところでこの稿はJ-WAVE批判ではない。(なにしろJ-WAVEはすでにそのような基準を廃止している)むしろ未来人の現在の目からJ-WAVEの果たした役割を考えると、J-WAVEジャッジとは「日本人が流行歌を聴く」とはどういうことか、を問い直す試金石になったと思えるのだ。


 「シティポップ」の男性シンガーについて考える。山下達郎、稲垣潤一、杉真理、村田和人、山本達彦、角松敏生、等々。初期のTUBEもそうかもしれない。いずれもJ-WAVEジャッジをクリアしたと思われる歌手である。この中で、「スナックでも歌われるレベル」の特大ヒットを放った歌手は誰か?を考える。 「クリスマス・イブ」の山下、「ドラマティック・レイン」の稲垣、「You're My Only Shinin' Star」の角松、「シーズン・イン・ザ・サン」のTUBEということになりはしないか? これは驚くべきことに稲垣を除く全員が「都会的でありながらCGPも歌う」歌手なのである。やはり日本人の腹の底の心のドアをノックするのはどんなにオシャレで都会的なデザインを施していても「心に浪曲」がある音楽ではないかと思える。
 日本の流行歌史は概ね同じことが繰り返されている。「メディアや文化人や音楽専門ジャーナリズムは浪曲を嫌う」、しかし歴史に残る特大ヒットを残すのは常に「浪曲(CGP)を抱いたアウトローの心」の歌なのである。
 上方の芸能について相当な批評眼を持つ上岡龍太郎はこのあたりのポップスについてさほど詳しくはない人物だが、山下のパフォーマンスを観て、「山下達郎は浪曲や」と評したという。そして誰も耳を貸さなかったそうである。

 この「重鎮であり中心にいながら傍流」という不思議な存在でいながらJポップの礎を築いた人物。その歌唱を「いつからクドくなったのか」という視点で検証してみよう。


・山下達郎歌唱の「クド」化とCGPの関係


ライブ盤「JOY」などに顕著だが、山下の歌唱はクドい。だがデビュー時からクドかったわけではない。バンド、シュガーベイブのメンバーとして活動をスタートしたのが1973年、唯一のアルバム「SONGS」を発表したのが1975年である。ここで聴けるのは20代の若者らしい伸びやかでハリのある素直な歌唱である。しかしライブ盤「JOY」では「RIDE ON TIME」のエンディングや「THE WAR SONG」で広沢虎造もかくや、といわんばかりのまるで浪曲のような唸りと雄叫びをあげている。スタジオ録音のものでも1986年のアルバム「ポケット・ミュージック」ですでにクドくなっている。一体、いつからクドくなったのか? まさか長渕、アスカ同様1984年だろうか?


・シュガーベイブ「SONGS」(1975年)
CGP曲、0(ゼロ)。全体に伸びやかで爽やかな歌声。日本のポップス史に残る重要アルバムだが、この論考の調査にとっては特に言うべきことがない作品である。


・ナイアガラ・トライアングル「NIAGARA TRIANGLE VOL.1」(1976年)
山下達郎、大滝詠一、伊藤銀次の三人のソングライターがそれぞれ楽曲を持ち寄り、制作した企画アルバム。例によって本論考ではこのアルバムの歴史的意義などすっ飛ばして山下歌唱の変化とCGPだけを追いかけていく。この作品における山下歌唱楽曲は「ドリーミング・デイ」、「パレード」、「遅すぎた別れ」、「幸せにさよなら」、「フライング・キッド」。CGP曲0(ゼロ)。歌唱はまだまだ爽やかである。「ドリーミング~」ひとつとっても「JOY」収録のライブテイク(1984年のライブ録音)と聴き比べていただきたい。同一人物の歌唱とは思えないほどだ。


・山下達郎「CIRCUS TOWN」(1976年)
山下のソロ・デビューアルバム。全8曲中、3曲が山下の自作詞。5曲が吉田美奈子のペンによる。A面がニューヨーク録音、B面がL.A.録音で当時最盛期であったアメリカのフュージョン系一流プレイヤーたちに囲まれての他流試合のアルバム。そのせいか、いつになく山下のヴォーカルも全体に緊張気味でぎこちないもの。結果、歌唱に関しては最もクドさを感じさせない作品。1曲目「CIRCUS TOWN」の冒頭から「ウォォ、ウォ~オ~」と日本語のレコードなのにオノマトペでスタートする異色作だが全体に爽やかな都会的なポップス。広沢虎造を想起させる要素はまだない。この時点で山下流の歌唱法を確立しつつあるが未だクドくはない。ではCGPはどうか。「永遠に」と「ラスト・ステップ」にCGPの気配がある。吉田のペンによる「永遠に」。「あなた」と「わたし」で語られる恋愛の心象風景。主体は女性のようだが、いわゆる演歌CGP的な「あなたなしでは生きられない」の儒教的女性主体ではなく、抽象的な心象が描かれる。「ラスト・ステップ」(吉田詞)も同様、一見、「あなたの胸に包まれながら このままいたいよ ずっと」「あなたの手から離れるたびに悲しみだけ増すばかり」といった箇所にCGPの匂いを感じ取れなくもないが、演歌CGPの持つ私小説的な重さはない。つまり吉田の描く女性像とは「お座敷小唄」以来の「芸者」の女性ではないのだ。「あなたの胸に包まれたい」のは芸者のビジネストークではなく、現実に生きる女性の心情として描かれる。よってこのアルバム、本論考の定義するCGPに当てはまる曲はナシ。CGP曲、0(ゼロ)と考える。


・山下達郎「SPACY」(1977年)
山下のセカンド・アルバム。全10曲中、吉田詞8曲、山下詞2曲。このアルバムでは見事にCGPを匂わせる歌詞は1曲もでてこない。つまり女性が主体がどうか以前に恋愛を直接に歌った曲がない。「夕闇がせまり、君の頬にミルク色が滲む」といったような抽象的表現、日本文学史でいえば川端や横光利一のような新感覚派の感触である。もっともCGPから遠いタイプの歌詞世界といえる。歌唱もまったくクドくない。しかし、彼は数年後には確かに「広沢虎造」化するのだ。このような内省的な世界からどうやってそこへ行きつくのか。もう少し様子をみよう。


・山下達郎「IT'S A POPPIN' TIME」(1978年)(ライブ盤)
山下初のライブ盤。前2作からの曲が中心だが、この盤にしか収録されていない曲も多い。14曲中8曲がこの盤のみの収録。(カヴァー曲含む)またしてもこの段階でまだCGP曲は0(ゼロ)である。ただし歌唱については注目すべき曲がある。A面4曲目収録の「時よ」である。スローな3連のバラードであるが詞は吉田のペンによる。のちの吉田のアルバム「Let's Do It-愛は思うまま」(1978年)に収録される。つまりカヴァーがオリジナルより半年ほど先に発表された格好となる。この曲がのちの山下歌唱に与えていったように思う。内容は「結ばれぬ恋に落ちてしまった二人。でももうこれで終わりにしよう。時が戻せたならば。(男性が女性を)苦しいほどに抱きしめる」というものでCGP曲ではよくありがちなテーマである。この曲はもともと女性主体で書かれている。吉田のオリジナル版では「あなたは私を抱きしめる」となっているが山下の版では「あなたを僕は」と変えて歌っている。だからといってこの山下版をCGP曲とするわけにはいかない。これはCGPというより本稿の冒頭で述べた「アメリカン・ポピュラーソングの性差表現」の典型的事例だからである。(パート1の村尾陸男の考察を参照)英米のポップスは主語の「he」を「she」に変えるだけで軽く性差を乗り越えてゆく。また、この曲が描く恋愛のイメージとはシェイクスピア「ロミオとジュリエット」、ミュージカル「ウエストサイド・ストーリー」など英米文学で繰り返し提示されるものでもある。つまり「時よ」は極めて「アメリカン・ポップス的なラブソングなのである。しかし山下版には唯一、アメリカンポップス的ではない要素がある。後半、歌唱が「クド」くなる点である。エンディングで「時が戻せたならば 愛しあうことさえも」と繰り返すことになるが、バンドの演奏が熱くなるとともに歌も「クド」く、フェイクしてゆく。この曲における「男女のなりかわり」とフェイク歌唱がのちの山下流CGP歌謡を生み出す素地になっているように思えるのだがどうか。


・山下達郎「GO AHEAD!」(1978年)
「レッツ・ダンス・ベイビー」、「ペイパー・ドール」、「潮騒」など現在でもライブの定番となっている曲を多く含む人気作。このアルバム収録の「BOMBER」が大阪、アメリカ村のディスコで局地的にヒットし、ここから山下達郎はヒット歌手への階段を上がっていくことになる。とはいえ、本論考にとってはとくになにも言うべきものがないアルバムである。(このアルバム自体は好盤です。あくまで本論考にとってはです)CGP曲は1曲もないし、スタジオ盤らしく歌唱も元通りの素直なものである。この「素直な歌唱」とはどういうことか?を考えるうえで参考になる曲がある。最後に収録された「2000トンの雨」。この曲を山下は2003年にオケはそのままでヴォーカルのみを録り直し、シングルリリースしている。(注2)四半世紀を経て歌い直した歌。1978年のオリジナルの歌唱は素直で正確な歌なのだが「仮歌屋さんが歌ったのかな?」と思うぐらいサラっとしている。しかし2003年版では存分に「クドさ」を炸裂させている。このような歌唱の変化をファンの間では「達っつぁんもトシとってクドくなった」といった感じで流してしまうが他の「CGPを歌わない」ポップス系男性シンガー、小田和正、槇原敬之、平井堅、小沢健二等は何年たってもクドくならないという点に着目しなくてはならない。


・山下達郎「MOONGLOW」(1979年)
 当時アメリカで勃興しつつあったブラック・コンテンポラリーの空気を反映した一枚。逆に言うと山下のトレードマークとも言うべきビーチボーイズ的60年代ポップスの要素がまったく無いアルバム。ここから1982年あたりまでアイズレーブラザーズやE,W&Fやマイアミのソウルのようなブラックミュージック路線を走ることになる。そして例によってCGP曲はナシ。歌唱も従前通り。(本論考的に)特筆すべきものはない。先ほどライブ盤の「時よ」で浪曲のような要素が観察される点について指摘したがひょっとすると当時、ライブではすでにクドさ全開だったのか? このアルバムの2002年リマスター再発盤に「永遠のFULL MOON」の1981年のライブテイクが収録されている。この時点ではどうか? 「エンディングをフェイクでエンエン引っ張る」という現在の山下ライブの原型がこの時点ですでに完成しているとわかる。しかしライブ盤「JOY」収録の「プラスティック・ラブ」や「THE WAR SONG」のような浪曲感はまだない。つまり、1981年あたりでは未だ爽やか歌唱だったのである。
それでは次は「RIDE ON TIME」といきたいところだが、さすがに疲れた。次回は1980年のブレイク作「RIDE ON TIME」からスタートする。今回のポイントは「1981年まで達郎は未だクドくなかった」ということである。続く。

注1・・・FM802はシャ乱Qのみならず、90年代には小室ファミリーを、2000年代にはAKB一派を排除した。

注2・・・映画「恋愛寫眞」(堤幸彦監督作品)のテーマ曲となった際にヴォーカルのみ録り直した。

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