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「てよだわ」女子が堕落する(ラブソングの危機を考える8)

 女子学生コミュニティ内で発生した「てよだわ言葉」とは、明治5年の学制の施行(欧米風の男女同権の教育の輸入)→結果「女子が男のような風体で書生言葉や漢語など使用するなどケシカラン」という世間バッシングを経て、「男子と女子の教育はやっぱり区別しましょう」と明治12年に教学要旨が発布される。この数年間の「欧米風の民主、平等でいくのか」、「日本古来の儒教的封建的「女はバカであれ」でいくのか」のドタバタ劇を経て、日本特有の「女子教育」がスタートする。今も連綿とつづく女子校文化を準備したとも言えるが、計画的に女子教育が始まったのではなく、世間のバッシングを背景に苦肉の策としてバタバタとスタートしたところが興味深い。 

 教学要旨の発布によって「女子のみのコミュニティ」が出現する。それは家族や地域社会などとは隔てられた、若い女子のみで構成されたコミュニティの出現である。この若い女子(しかも学問を受けれる程度の社会階層の高い子女)のみのコミュニティを背景に、たとえば吉屋信子の少女小説などが生まれたと考えられる。このような濃密な女子的空間のなかで「学の高い女子同士の符牒」のような感覚で「てよだわ言葉」が流通したと考えられる。そう考えるとこれは現代における腐女子言葉「汚女(おとめ)」や「汚腐会」や「ゴキ腐り」のようなコミュニティ用語の源流と言える。
 ただし、単に女子学生が仲間内で使用していたというだけでは「てよだわ」が世間的に女性を表す表象とはなりえない。それは未だ、「汚腐会」や「ゴキ腐り」が世間では通用しないことからもわかる。ではどのような経緯を経て、「てよだわ」が女性を表す記号となったのだろうか。
 そこで「てよだわ」以前に少し、話を戻そう。「てよだわ」出現以前に江戸の元禄あたりで「女性が使用すべき言葉」の規範が示されていた話を前回した。遠藤織枝「女ことばの文化史」(学陽書房)によれば具体的に女性の言葉遣いについて述べられたのはやはり高井蘭山「女重宝記」(1692年)で、


 男のことばと女のことばをはっきり対立させ、女の男ことば使用を強く戒める。そのために幼時からの育て方も男女を分かつことを主張する。そして子どものように拙い幼稚なことばが交じったことばでやわらかなのがいいと説く。(中略)ここには江戸時代の女性のことばづかいに対する規定がすべて記されており、その規定が現代の「女性語」とされるものにそのまま引き継がれている。(前掲書)


 この時点で推奨される言葉遣いとは、「1、子どもをおさなひといふ 1、子どもたちをお子たちと云 1、なくをおむつかる」といった具合に具体的に「やわらかい言葉」を指定している。まだ「てよだわ」は出現していない。これら「女訓書」は一般の女性向けに書かれたもので、この時代の大多数であった農民の女性たちが推奨されている「お」や「もじ」をつけて会話していたということはないだろう。少なくとも「読み書き」ができるレベル以上の子女向けであっただろうと推測できる。
 江戸時代にはそのような上品向けの言葉遣い指南とは別の「女ことば」ベクトルがあった。「遊女語」である。このあたりの文化がのちのCGPと大きく関わってくる。
 江戸時代には吉原・島原などの遊女たちが使用した「遊女語」が存在した。江戸幕府は江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町に公認の遊里を開かせた。これらの遊里で働いていた遊女たちの言葉は主に敬語で、客に対する待遇表現として創造されたものだ。そう、遊女語は「女訓書」のような明文化された規範ではなく、遊里というビジネスの現場において口承で受け継がれていった、いわば伝統芸のようなものであった。そういう意味では遊女語は「女重宝記」で推奨される言葉とは対極の存在である。遠藤本によれば当時の文芸、人情本などで客とどのように会話し、使用されたかが記録されている。「~ござんせぬ」「~みさしゃんせ」「お帰りあそばしませ」「~~お困りなんす」「よもや花魁も、厭とはおっせえすめえ」といった、ありいす、おざりいす、ござんす、あそばせ、おっせいす、といった語形の変化したものの使用が確認できるという。また、語彙としては通、粋、ヤボ、といった現在にも生きている表現、まぶ(遊女の情夫)、揚屋(女郎屋から遊女を呼んで客が遊ぶ家)、茶屋(女郎を抱え、客に飲食と遊びの場を提供する家)、やりて(女郎屋で遊女を取り締まり、遊客との応対など一切を切りまわす年配の女性)などがすでに使用されている。やりて、などは現在でも「やりてババア」などの表現の残っているように、夜の街のルールや文化のルーツは江戸の世にまで遡れるとこういったボキャブラリーからわかる。この吉原、島原の遊里カルチャーがとくにたかじん、小林旭、宮史朗等のムード歌謡の背景にあると考えられるがひとまずおいておこう。


 明治以降の近代社会において下賤の言葉、遊女語のござんす、あそばせ、などはナゼか上流階級に採用される、といった変化もあったが遊女語は近代の到来とともに廃れてゆく。あらためて「てよだわ」に戻る。「てよだわ」と従来の女房詞や遊女語との決定的な違いは、従来の女性用言葉が上から押し付けられる規範であったりビジネス用語的に「使用を強制」されるものであったのに比して「自然発生的に生まれ、コミュニティ内で使用したくなるもの」であった「遊びの言葉」であった点であろう。女子学生コミュニティのみで流通する言葉、ということは女房詞や遊女言葉のように世間一般や遊里の現場のように社会とかかわらない言語、ということでもある。このような由来の言葉を無論、世間は快く受け入れることはなかった。尾崎紅葉は雑誌、「貴女之友」(明治21年)に「流行言葉」と題するエッセーのなかで「旧幕のl頃青山に住める御家人の(身分のいやしき)娘のつかひたがるが~」と卑しい娘の使う言葉だと非難している。他の新聞、雑誌においても「てよだわ言葉」を非難する記事が掲載された。
 しかし「てよだわ」は閉鎖的な女子コミュニティ以外の、別の回路を見つけ出すのである。「てよだわ」を使用したのは世間から隔絶された女子だけの世界にいる、高い社会階層の子女だったのである。つまり当時の庶民の憧れでもあったのである。制服研究者の森伸之も「明治後期、女学生はアイドルだった」と述べている。(明治32年の高等女学校令以降、女学生が増加し、憧れの対象となる)(TBSラジオアフター6ジャンクション、「制服アイドルの系譜特集」5月23日放送分)
 女子の仲間内で隠語のように使用されていた「てよだわ」はやがて、高い社会階級に属する若い女子の魅力を表す記号となっていく。まず、この「てよだわ」が持つ別の価値に目をつけたのは小説メディアであった。「てよだわ」を積極的に登場人物に使わせたのは当時の言文一致小説の作家たちである。最初はどうも二葉亭四迷によるツルゲーネフ「父と子」の翻訳であったようだ。ハイカラな西洋娘の言葉づかいとして「てよだわ」は採用された。このあと良家の生まれで進歩的で、近代的で、若くてハイカラな女子、の表象として「てよだわ」は世間を一人歩きしてゆく。
 いったん、閉鎖的な女子コミュニティを抜け、世間へと歩きだした「てよだわ」がやがて封建主義のやかじんや長渕の手にわたるのは時間の問題である。ただし、まだCGPで使用される「てよだわ」にまでこなれていないように思われる。たかじんや長渕やぴんからトリオをはじめとするCGPは「てよだわ」女性を決して「進歩的で近代的でハイカラな女性」として扱っていないからである。もう一度、「やっぱ好きやねん」や「巡恋歌」や「女のみち」を思い返してみよう。
 いずれも男にだまされ、捨てられる悲しい恋を嘆いている女が描かれる。(やっぱ好きやねんのみ、それを受け入れるが)また、歌詞のハシバシから古臭い女訓書などで推奨されたような模範的な日本女性をうかがわせる雰囲気がある。間違っても進歩的、近代的、というイメージはない。良家の出という感じもない。全体的に水商売従事者の雰囲気がある。
 つまり、明治の言文一致小説で表象されたイメージとは真逆の女性が「てよだわ」使いで描かれるのだ。おそらく「てよだわ」は二葉亭四迷の時代からたかじん長渕のCGPの手にわたるまでの間にもう1回、なんらかの工程を経ている。そして「てよだわ」がCGPにとって重要な記号となる契機である。
 「てよだわ」は「進歩的女子の表象」を経て、セクシュアリティ化したのである。つまり、「性の対象としての女子、エロイ女子」へと変化したのである。どういうことか。話は明治32年の高等女学校令へと戻る。
 高等女学校令の背景には日清戦争以降の国力増強政策の一環という面がある。高い家政能力を持った「良妻」と次世代の国民を産み、育てる「賢
母」の育成が急務となった。そこで高等女学校令により、良妻賢母を掲げる女子教育が確立したのである。高等女学校には入学志願者が殺到した。憧れの的だった「近代教育を受ける女子」はこの時、大量発生することになる。
 この女子学生の大量発生と近代的な「恋愛」という概念の普及がほぼ同時に起こったのである。
 この稿のパート2で見田宗介が恋愛感情の歌の起源を探る話をした。(有料部分)もう一度見てみる。見田によれば流行歌において恋愛感情の歌が成立したのは明治43年の「一握の砂」と「真白き富士の嶺」(七里ガ浜の哀歌)だという。「真白き~」は鎌倉女学校の教師が作曲し、女学生たちが歌った。この明治43年をラブソング元年とした。これ以前の恋の歌との明確な違いは以前のものは主に遊里を背景に客との関係についての歌であって近代恋愛ではない、ということである。つまり見田はラブソングを「女遊び」ではなく、キリスト教由来の「精神的な愛」を歌うもの、と考えている。
 純文学の世界では一足早く、恋愛小説が登場した。森鴎外「舞姫」明治23年、徳富蘆花「不如帰」明治23年、夏目漱石「それから」明治43年、などがすでにあった。
 このような「女子学生大量発生」と「恋愛とかいう進歩的なイケてる概念」の普及が明治30年代に起こる。「恋愛の普及」と教養のある「女子学生」は組み合わせとしては完璧であった。むしろ「女子学生」がいなければ恋の歌はいつまでも遊里を背景とした遊女や芸伎を対象としたものだっただろう。このような女子学生を近代小説は「意識の高い女子」としてさかんに描いていくことになる。しかし、もうひとつの動きがあった。中村「女ことばと日本語」にそのあたりが端的にまとめられている。つまり、意識の高い森鴎外や夏目漱石読者は意識高い恋愛小説で満足したが、新聞の読者は違った。彼女たちのスキャンダルを望んだということだ。新聞読者は「憧れの女子学生が性的に堕落していくスキャンダルを望んだ」そしてそのような好奇心に新聞小説は応えていくことになる。読売新聞連載、小杉天外「魔風恋風」(明治36年)には女子学生をのぞき見するシーンが描かれている。やがてポルノ小説も「てよだわ」使いの女子学生が性的に堕落してゆく様を描くようになる。結果、遊里の遊女とは別の、新しいタイプの性的対象が生まれたのである。田山花袋の代表作「蒲団」(明治40年)の有名なシーンで、主人公の中年の男性作家が女弟子に片思いし、その弟子の夜着の匂いをかぐ、という、ものがあるがこの小説が広く衝撃をもって受け入れられた背景にはこれらの前提があったと考えられる。インテリな女学生や女書生を性の対象として見つめる、という新しいタイプの性欲を描いたことがこの小説の魅力となったのだろう。これが遊女の夜着の匂いを嗅いだ、ではまったく話題にならなかったはずだ。
 この明治の30、40年代にポルノ作家や田山らによって発見された「インテリの女子を性の対象として捉える」というコンセプトは意外なほど強い生命力で今日の文学にまで影響を与えている。未だポルノ小説やアダルトビデオ、成人向けアニメ、ゲーム等のコンテンツは女子高校生が犯される、陵辱される、という設定を量産しているし、多くのポルノゲームは勉強のできる女子高校生がゲームプレイヤーに恋をするように設計されている。まったく同じようなストーリーラインであってもこれが「人妻」や「OL」では価値が変わってしまう、ということは男性読者なら理解できると思う。ことほどさように「若いインテリ女子」が持つエロコンテンツの訴求力は存外に強いものである。ただ、なんとなくなのだが、私は「女子学生がエロコンテンツとなる」のは戦後のことかと考えていた。明治期からすでに発見されていたのである。また、「エロ」という生物レベルの欲求が近代以降「社会的背景によって喚起される」という現象が起こったとも言える。つまり、20歳ぐらいのAV女優がいたとして、OL役もできるし、女子高生役も可能なわけだが、高校の制服を着用した途端に、そこにOLや人妻や看護婦などとは違う、別種の高付加価値がつく、という現象である。または「元有名アイドルグループ研究生」などといった、背景情報に欲情する、という現象にも言える。近代以降、男性の性欲は「社会的」になった。その端緒はこの明治3、40年代だったのである。
 ここまでくると明治の小説の「てよだわ」女子と戦後CGP女子は近似してくる。つまり、CGPに登場する「てよだわ」使いの女性たちはどこか、元インテリ女子学生であって、性的な堕落を経て、CGP女子となった、というストーリーが見えてくるのである。とくに「やっぱ好きやねん」にその気配がある。(さらに細かく見ると「やっぱ~」の女性は寡黙であり、封建社会を生きてきた歴史を感じるが、長渕「巡恋歌」の女性は饒舌である。この傾向は続編とも言える「涙のセレナーデ」(’80)にも表れている。長渕の描く女性は学制以降の女子コミュニティ育ちの生育を感じさせる)
 それでもまだわからないことがある。CGPは戦前にも見つけることができるが、その数は極めて少ない。わずかにディック・ミネ「愛の小窓」(昭和11年)、楠木繁夫「女の階級」(昭和11年)ぐらいなのである。戦後、わけても昭和40年代に演歌やムード歌謡を中心にCGPが大爆発を起こすことになる。そして現在の長渕や達郎やEXILEにまで引き継がれることになる。そしてどうして世界的に見ても珍奇なCGP(男女が交差する、クロス・ジェンダード現象)となったのか。そこを考えたい。つづく。

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