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渡辺 佳子「日本における近代アーカイブズの萌芽―明治期の行政機関の文書管理制度を中心に―」日本アーカイブズ学会『アーカイブズ学研究』No.7 (2007.11)

ごきげんよう。

本日は、私が大学で研究しているアーカイブズ学についてである。

私は、アーカイブズ学に関する情報や研究の切り口を見つける際に、必ずと言っていいほど、日本アーカイブズ学会の『アーカイブズ学研究』に掲載されている論文を読んでいる。

今回は以下の論文を読んだので、ここに書いてあった情報を整理するためのメモとして書いていきたいと思う。

渡辺 佳子
「日本における近代アーカイブズの萌芽―明治期の行政機関の文書管理制度を中心に―」
日本アーカイブズ学会『アーカイブズ学研究』No.7 (2007.11)


1.はじめに
(研究史整理)
・内閣記録局編集『法規分類大全』第一編、官職門、官制、内務省一、図書寮設置の「内務
省伺」、1889 年、55 頁
・内閣記録局編集『法規分類大全』第一編、官職門、官制、内務省二、「図書局編纂課処務
順序」、1889 年、238 頁
・内閣記録局編集『法規分類大全』第一編、官職門、官制、内務省二、「記録課編纂事務」、
1889 年、199 頁
・北海道立文書館所蔵「明治 9 年 内務省局務提要」
・国立公文書館所蔵「記録局諸則沿革録 記録課之部二」記録改良順序の梗概
・『内閣文庫百年史』、国立公文書館、1985 年、290 頁
・水野保「明治期地方官における文書管理制度の成立」、安藤正人・青山英幸編著『記録史料の管理と文書館』、北海道大学図書刊行会、1996 年、208−209 頁
・太田富康「府県史、記録、アーカイブズ」、歴史人類学会編『国民国家とアーカイブズ』、
(論文の課題)
文書に対する政府の認識がどのように変化していくか、アーカイブズにつながる兆しがあったのかなかったのか、あったとすれば、それは育ったのか育ち得なかったのか。
(方法)
明治期の行政機関の文書に対する認識の変遷を追う。

2.明治初期における政府の文書に対する認識
・政府が有した文書に対する価値
「史録」「史籍」という位置づけであったと考えられる。
・文書に関する具体的な施策
 1868(明治元)年 9 月の議定官史官の記録編集の建議が始まる。同年10月の弁事分課
の中で「日々御決議ニ相成候事件ヲ分類編集シ、一部ノ御記録ニ相成候様可致事」という職務が規定された。
・歴史編纂と行政機関の文書編纂保存が未分化の時期
 文書の作成と歴史編纂が同時代的に移行した時代ではなかったと考えられる。

3.廃藩置県後太政官制度廃止までの時期における文書に対する認識
新政府は自ら統治した正当性を示すこと、維新の大事業を後世に残すことを意識していた。
(謄写した公文書の類輯編纂と原本の保存が積極的に行われた)
具体的には以下の通り。
・組織や法規の整備
・事務章程や各課の分掌を定める職掌章程
・処務順序等の整備
・文書の受付から保存までの事務処理のシステム構築
・類聚や典例・条規の編纂
・文書の処理方法や保存期間の区別

-1.太政官正院に記録局を設置
1871(明治 4)年「太政官職制並事務章程」により記録局が設置され、太政官は、正院・左院・右院の三院制であり、正院に太政官の記録組織が置かれた。
1872(明治 5)年、正院の分課改編が行われ、記録局は記録課となり、翌年に記録課章程が定められ、記録課には公文科・類典科・雑科の三科が置かれた。

-2.正院の廃止と記録部(課)組織の変遷
1877(明治10)年、正院が廃止。
具体的には以下のことが行われた。
・文書を軽重の順に、法律・行政規則・訓条・批文の四つに類別する
・批文を決裁文書として扱い、四部類中では最下位の部類に区分する
・元老院に付して制定されたものを法律として定める
1880(明治13)年、「太政官公文取扱内規」が制定。
翌年、「公文ヲ編次シ及ヒ類典便覧等ヲ編纂スルコト」と「官中一切ノ書籍ヲ管守シ及ヒ出納ヲ取扱フ事」の二つを定める内閣書記官局の記録課処務規程が制定され、太政類典が公文類聚に改称された。
1883(明治16)年、文書局が設置され、記録課も移された。

-3.内務省の文書に対する認識
1873(明治 6)年 11 月に内務省が設置され、この中に記録課の設置と「全国ノ記録ヲ保存スル事」という分掌が規定された。
1875年(明治8)年7月12日、「第二局分課職掌」が制定され、七掛の設置と処務順序が定められる。このとき、保存掛処務順序において、文書を二類に大別し、第一類を公文、第二類を図書とした。9月28日、図書寮が設置され、編纂課、出版課、庶務課という三課がおかれ、13の掛が設置された。職員は約 100 名で現在の国立公文書館の職員数の倍近くあった。
1882年(明治15)年、「公文原書編纂保存規則」が制定され、編纂する文書について要不要を判断するようになる。
1885年(明治18)年、内務省処務条例が制定されて図書局が廃止され、「文書取扱順序」
が規定され、総務局に図書課と編纂課が設置される。この動きにより、図書寮や図書局は、一般への公開こそしなかったが、文書や図書の編纂保存を目的として設置された組織であり、いわばアーカイブズの一部の機能を有していた組織とも考えられる。
4.内閣制創設以降の文書に対する認識
1885(明治 18)年 12 月に内閣制が創設され、その 4 日後に「各省事務ヲ整理スルノ綱領(官紀五章)」が制定され、「規則による事務の統一化」と「規則に基づく判断の合理化」が進められる。「各省官制」「各省官制通則」が制定され、文書の編纂保存についても各省通則の中で規定される。また、「類輯編纂」から、文書分類を定め保存年限を決めて原本を保存していくという流れに入って行き、保存年限制の導入は、当然文書の廃棄を伴うものであり、アーカイブズの視点が加味されないままに、保存年限が「永年」若しくは「永久」以外の文書は、廃棄されて行くことになる。

-1.内閣記録局
内閣記録局には記録課と図書課が置かれ、内閣書記官及び内閣各局文書の記録編纂と図書の類別保存が行われ、公文録の編纂の中止、公文類聚の編纂方法の変更、公文雑纂の編纂の開始というように、公文書の編纂方法に大きな変化が見られる。「記録図書目録記載の区別」として、公布できるものは図書目録へ、公布できないものは記録目録へという整理がなされ、「法規分類大全」や「明治職官沿革表」などが公布できるものとして記録課から内閣文庫へ移される。

-2.内務省
内閣制創設後の内務省では、編纂課が記録課と改称され、記録保存を所管し、図書課は図書保存のみを所管することとなった。また、「内務省官制」が制定され、「内務省文書保存規則」、「文書保存細則」、「公文類別部目」が定められる。謄本を作らず、文書保存期限を設定した原本の保存と廃棄、施行後の文書の記録課での保存と各課の借覧、永年保存文書の類別部目による編纂等が規定されている。

5.行政事務遂行上における文書に対する認識
・地方長官 更迭時の「事務引継書」の作成を義務付けた1873 年(明治 6 年)7 月 17 日
の「府県事務受渡規 則」の制定
・地方官の処分権限に関するもの
・稟議制

6.歴史編纂事業
1872(明治 5)年、正院に歴史課が設置され、国史編纂事業が始まるが、1875(明治 8)年には修史局と改称される。さらに正院廃止後には修史館と改称され、1884(明治 17)年には「府県史編纂」も所管した。府県史編纂について太田富康氏は、「『府県史』の編纂は府県にとっては、自らが作成・収受し 管理する公文書を「史料」として選択し、類目別編年に編成する作業」であり、「府県という新たな行政組織体は、文書管理のシステム確立過程において、同時にアーカイブズ的要素や認識の インパクトも受けていたといえるのである。」と述べている。

7.まとめにかえて
政府はアーカイブズの知識は有していた。記録の価値や記録を残そうとする明確な意図もそれぞれの施策の中で読み取ることができる。ただその中で、記録が国民のものである、という意識 は生まれなかった。公文書を公開することは人民の動揺を招くものである、その代わりに原本で はなく類集等を再編し、アレンジしたものを一部公開して行ったということであったと思われ る。価値は十分にわかっていながら、欧米にそういう制度があるということを十分認識していな がら、アーカイブズで一番大切な部分、一般の国民に公開し国民はそれを利用できるという制度 が育たなかったということは、やはり民主主義の未成熟の時代がもたらした結果ではなかったかと考える。もう一つ考えられることは、例えば博物館は当時の内務省の施策であった殖産興業と結び付いて普及していった。また図書館も新しい知識を習得する場として、そのような政府の施策のもと に設置されていく。ただ文書館・公文書館は、そのような政府の施策と結び付かなかった。

報告者コメント
日本におけるアーカイブズの現状が明治維新後の歩みを理解することで、見えてきた。現代では公文書館法があるが、公開された文書の保存、また作成されたあとの文書の保存にアーカイブズの視点を持って、後代にまで残せるようなシステム、そして一般の人たちが利用できるシステムが考えられ整備されていく時代を私たちが作っていくべきだと考える。

以上が、論文のまとめである。
今回はメモのような形になってしまい、
たいへん申し訳ない。

最後までお付き合い頂き、誠にありがとう。

ごきげんよう。
さようなら。

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