楽しい食事のすすめ
「悪くないんだけど、ちょっと味がぼやけてるかな。もう少ししまりが欲しいね。」
「わーこれ素材の繊細な旨味を引き出してて美味しい!あーけどこっちは化調(化学調味料)めちゃくちゃ入ってるね。」
「イノシン酸系の旨味が強く感じられるから、グルタミン酸系の素材を合わせたら、さらに深みが出ておいしくなるんじゃない?」
誰かとおいしい食事を囲んで、感想を言い合うのは面白い。
自分とは違った視点を覗けて話が弾んだり、想像もしていなかった食材の組み合わせを思いついたり、面白いことだらけだ。
ただ、昔からそんな会話にどこか窮屈さを感じてしまう自分がいる。
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「同じ釜の飯を食う」。
全人類普遍の、仲良くなるための魔法の言葉がある。
いつの時代も、人種も性別も年齢も関係なく、同じ釜の飯を食べた人とは、それまでよりちょっぴり心の距離が近づくものだ。
古くから食事という行為は、人間にとってただ生きるためのものではなくて、苦労して集めたり育てたりしたものをみんなで分け合って、笑顔で盛り上がったり、絆を深めたりする行為だったのだろう。
「company」
ーー 「会社」という意味以外に、「仲間・友人」と翻訳することもできる。
com = 共に
pan = ラテン語のpanis「パン・(広い意味で)食事」
y = 集団・人たち
言葉の語源を見ても、「共に食事をする人たち≒仲間」という世界共通の歴史を想像できる。
僕はこれが食事の根っこだと思っていて、そしてまた「食」が大好きな理由もここにある。
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話を戻すが、食事の席ではしばしば、冒頭のようなやりとりが繰り広げられる。
グルメな人や料理人なんかの間では特にそうだ。長年鍛えてきた己の舌や知識、表現力を駆使して、「食事」はいつしか「品評会」と化す。
「解像度を上げよう。」
「言語化して再現性を持たせよう。」
無論、食のプロフェッショナルである彼らが、それをするのは当たり前だ。彼らの品評の積み重ねによって、この世界には数えきれないくらい沢山の笑顔が生まれている。食で世界をハッピーにしている彼らには、尊敬の念しかない。
しかし僕は、普段の食事がそれでは窮屈なのだ。
深く考えたり、知識の掛け算をしていくことは、とっても大事なことなのだけれど、なんというか、心の底から食事を楽しんでるのとは少し違うというか・・・
もっとシンプルに食事を楽しみたいというか・・・
極論かもしれないけれど、うまいものを「ウマい」と言えない空気感も、飲食界隈ではちらほら見られる。化調で美味しくなってるものを「ウマい」と言えなかったり、「こんな安易な味をウマいと言ったら甘く見られるかも・・・」みたいな考えがよぎってしまったり。
見栄やプライドと言ったら棘があるかもしれないけれど、そんな空気感が少しでも感じられると、どっと疲れてしまう。僕はできる限り、それとは違う世界線で生きていたいなと思ってしまう。
舌が肥えてるとか、食リテラシーの違いとか、そういうの抜きに、ただただ一緒にご飯を食べて「ウマい」を共有するのが一番好きなのだ。(だからこそ、誰もがウマいと言える空気感がなんとなく醸成されている気がする、分かりやすく美味しいからあげ専門店とかが大好きだ。)
そしてまた、なんでもかんでも「めっちゃウマい!」の一辺倒でイジられてるくらいの友人と一緒に食べる方がよっぽど楽しいのだ。
ただ誤解しないでほしいのは、解像度を上げて良く考えながら食べることは大事だと思っているし、「みんな余計なこと考えずに、うまいうまい食おうぜ。」とか、そういった話をしたいわけでは全くない。
ただただ僕が、シンプルに「ウマい」を共有している時間の方が好きというだけだ。(もちろん、たまには品評会をしたい時だってあるけれど。)
ーーこんなのはどの分野にも言えることであって、「人によって解像度に違いがあるよね」という言葉に収束する話なのだけれど、食は誰にとっても身近すぎて、解像度の違いがイメージ・表面化しやすいと思っている。
「舌が肥えてる」とか、「味音痴」とか、そんな言葉が浮かびやすいのだ。
食は誰にとっても生活そのものだからこそ、人それぞれの解像度の違いをあまり持ち込みたくない。みんなでフラットに楽しんでいたい。僕はそんなスタンスでいたいなと思っている。
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それでは、食卓を一緒に囲んでいる人たちと、どうすれば自然にフラットに楽しめるのだろうか?
ここまでとは半分矛盾するような話だけれど、大学生の頃に友人と訪れたフジマル醸造所で、こんな食事をしたことがある。
友人と僕は、お互いにMr.Childrenが大好きだった。
その日はワイン5種の飲み比べをしたのだが、
「ワインっていろんな顔があって本当に面白いね。けど表現がいろいろありすぎてよく分かんないね。分かんないけど、なんだか無限で自由だよね。あーじゃあさ、お互いにミスチル大好きだし、それぞれのワインをミスチルの曲で表現してみない?」
そんな話になった。
「このワインは、若々しさがあって、けどどこか偉大なる王道に憧れている感じがする。cross roadっぽいね。」
たった5杯のワインテイスティングのはずが、かれこれ2時間以上、僕たちはワインとミスチルの世界を行ったり来たりしていた。
そして結果的に、その日の食事は今でも忘れられないくらい、心の底から楽しかったのだ。
なんというか、ここで良いのは、正解がないこと。もちろん料理の感想だって本来正解はないのだけれど、「このソース〇〇な味わいですね」がトンチンカンな発言だったらどうしよう・・・などのフィルターがかかってしまう場合がある。
しかし1つレイヤーの違った会話においては、正解の基準が掛け合わせになり、複雑性が増して、本当の意味で正解がなくなる気がする。そしてより自由で障壁の少ない感想を言い合いやすくなる気がするのだ。
そしてまた、食という言語においては知識や経験の差があったとしても、お互いが深掘りできるような共通言語に会話が移行することで、自然とフラットで楽しい時間が生まれるのだ。
なんだかむしろ解像度を上げなくてはいけないのでは??という声も聞こえてきそうだけど・・・
抽象化して転用する。
ーーつまり、飲んだワインの抽象的な特徴を挙げ、それを自分と相手にとって最適な言語(テーマ)に転用する。
その際、転用先の共通言語はなんだっていい。僕らの場合は、ミスチルの曲名だったけど、それが映画だっていいし、知り合いの名前だっていいし、車の種類だっていいし、タバコの銘柄だっていい。
一緒に食を囲むメンバーで一番楽しくなれそうな共通言語を設定することが、楽しい食事の秘訣なのだ。(?)
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日中の風も冷たくなってきた秋終盤。
冷えた身体を温めようと避難した「寿湯」の湯船にて、同じ釜の風呂に浸かっている地元のおっちゃんたちを眺めていたら、楽しい食事について考えを巡らせてしまっていた。
「あの店のあの料理が、あのアーティストのあの曲に似てるよね。」
そんな話題でずーっと語り合う雑誌連載とかラジオ番組とか、楽しいんだろうな。
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